□ 現代の「知」について(総集編) 平成14年8月12日
「歴史を消し去る歴史」の上には流される記憶しか残らない@ □エピローグ 山口県宇部市の渡辺素行記念館。1937年、渡辺氏が関係する炭鉱6社が市に寄贈した、市民のための文化会館である。宇部市は明治になって突如として勃興してきた炭鉱の町である。第2次世界大戦前、日本に暗い影がさしはじめていた中にあって、日本の産業が若々しい力を保っていた健康な時代のモニュメントである。今訪れてみると当時の建設の基盤を支えていた高揚はなくなったとはいえ、宇部の街にとって力強いシンボルとして存在している。全体の構成は厳格なシンメトリーを保ち、建物前面に壮大な扇形の広場をとり、タイルで構成された建物の前面は3枚の壁面がゆるやかな楕円状にカーブして重ねられている。前庭の広場には、対称に3本ずつ、6本の列柱が中心に向かって屹立し、視線が入口に集約され、くすんだタイル壁と6本の列柱が見事に対比し、前面の広場にセピア色の緊張感をかもしだす。
シンメトリーの構成建物のモニュメント性を考えると、戦前の様式建築が「西欧らしさ」に終始することにデザインの重きをおいているのに比較して、強烈な力強さと方向性をもったヒエラルキーを訪れる人に投げかけてくる。設計者は村野藤吾A。巨匠としての村野藤吾の作風は、伝統的な皮膚感覚をもった職人芸の延長として、繊細な、どちらかといえば分かり易い、女性的な数々の作品Bを残した建築家人生にあってこの建物は異色であり、村野藤吾自身もあまり語りたがらなかった建物であったという。ある意味では民衆が訪れる市民のための建物を、近代資本主義としての炭鉱の繁栄とやがて訪れるであろうファシズムの精神に加担した建物であったということなのだろうか。
ナチス・ドイツの建築好きであったヒトラーにかわいがられたアルバート・シュペアーは首都ベルリンの都市計画と建築デザインの統制の全てを任された(1937)。モダニズムに対する反動の軌跡であり、近代建築の排除、装飾を取り除いた古典様式の復活の名のもとに、シンメトリー、列柱、壮大な壁、階段といった手法が施された建築写真がかすかに頭をよぎる。
今日日本において超高層が群立する唯一の地区としての新宿西口。雑多な街新宿。においのする街新宿。地下駐車場へ向かうスロープと換気塔と一体となった、何もかも飲み込んでしまうような大きな空洞で形づくられた西口広場。都市にうごめく喧噪をすべて飲み込んでしまうようなかたちで、丹下健三設計の新都庁舎は2本の塔状の建築となって新宿一帯を睥睨する。
それまでの新宿周辺の超高層建築、加えて霞ヶ関ビルを始めとして、効率化と容積の肥大化と戦後日本資本主義の技術至上主義社会の象徴として、均質化された(近代が普遍的で均質的な人々を「大衆」として視野に入れていたように)各階を繰り返し垂直方向に積み重ね、徹底的に作者の恣意性を排除した透明なガラスでつくられたわかりやすい建物に対し、丹下健三の新都庁舎は異質な形態を表現している。 ノートルダム寺院のシルエットをなぞらい、ゴシック風の細部をもつことによって、今までなかった「塔」としてのシンボル性が高く評価され、他のビル群に対して強烈な「差異」の表現として屹立している。丹下健三は特に戦後、近代主義の標榜者として国家にとって必要であり、要請された建築家でありつづけた筈であった。
他の高層群に対して「差異」を表現し、そして設計競技を勝ち取るために、シンボル性と呼ばれたその新都庁舎の外観の装飾性ゆえに、結果としてモダニストの立場を転進した、ポストモダニストに変身したといわれるゆえんである。技術、合理主義の化身である超高層の表層に手の痕跡、恣意性(ゴシック調の)を残すことによって、新都庁舎は異様な形態を語りかけているのである。
戦後まず第1の代表的な作品が「香川県庁舎」。近代主義の合理的な、透明性の高い、均等な柱・梁に、日本の木をコンクリートに皮膜として転写することによって、日本「らしさ」の表現に成功し、西欧にあって西欧にないものとしての日本近代(建築)の在り方を建築界に問いかけた。以後全国各地で庁舎建築の必要性が迫られる中にあって、香川県庁舎は1つのプロトタイプとなり、どこにいっても類似性をもった1つの形として開花した。
「超高層は採用しない」H。丹下健三門下の磯崎新は、同じく参加した新都庁舎の設計競技において、技術、特に経済の論理を強く前面に押し出しがちな他の超高層案に対して、あえて低層案を提出した。モダニストの立場を具現し続けてきた丹下健三に対して、丹下健三研究室出身の磯崎新の反近代、異議申立てだったのではないだろうか。丹下健三の超高層案が外に向かって表現された「塔」としてのシンボル性に対して、内に向けた空間性を表現している。庁舎としての都民広場、シティーホールそのものへの問題提起であり、磯崎新は「新都庁舎は、あらためて都民と接する場の編成という視点から考え直さねばならない」Iとコメントし、建物に内包された広場を、場面をかたちづくる場として提案することによって、均質で、普遍的な近代からの脱却を試みたのである。
具体的に言えば、結果として師である丹下健三の案も含めて、他の超高層の既存の建物、設計競技案に対して、近代主義の名のもとに排除し、無視し続けてきた新宿という都市をKEY
WORDにして、ポップなもの、コマーシャルなもの、キッチュ、木賃アパート、ドヤ街、アノニマスなもの、ヴァナキュラーなもの、装飾、そして様式…色のある、臭いのある、都市にうごめくものに近代以外のものを学び、周縁に目を向けた場を提供することによって「風景」をつくりだそうとしたのではないだろうか。
磯崎新が初めて発表した「空中都市計画」(新宿)が暗示する都市の姿が印象的だ。都市の変貌を強いインパクトで働きかけてくる。磯崎新はこの計画をのちに『「廃墟の都市」と呼んだモンタージュが生まれました。ここには、私にとってその後の全仕事にかかわる「対立」の手法が、数多くのメタファーを生む手掛りとして使われています。未来と過去、新と旧、秩序と崩壊、建設と消滅、量的なものと線的なもの、これらが理不尽な接合をしています。』Jとコメントしている。
磯崎新は丹下観察者としてコメントする。 □おわりに くすんだ素朴なレンガタイルと、その凹凸で陰影をかもしだし、宇部炭鉱の象徴としてつくられた渡辺素行記念館。もう一度言う、村野藤吾にとって異色な、炭鉱で働く人々、民衆のエネルギーを集約させた6本の列柱と楕円の壁。築後60年経っても静かな宇部の町に、確かな職人芸としてのデザイン力に裏打ちされ、ぜい肉をそぎおとした「野性」の表情を投げかけ、宇部の「風景」をかたちづくっている。 □参考文献 ・「建築の解体」磯崎新(美術出版社) |
@「日本の近代」都市へ 鈴木博之(中央公論出版社)401頁 A村野藤吾(1891-1984) 早稲田大学理工学部建築学科卒 日本芸術院会員 文化勲章受賞 「早稲田大学文学部校舎」 など B「ルーテール神学校」 「宝塚キリスト教会」 「日生劇場」 「箱根プリンスホテル」 「小山敬三美術館」 C「1930年代の建築と文化」 同時代建築研究会(現代企画室)34頁 D丹下健三(1913- ) 東京大学工学部建築学科卒 文化勲章 勲一等瑞宝章 AIA名誉会員 アメリカ芸術院名誉会員 ローマ法王・サングレゴリオ賞 E設計競技 「大東亜建設記念営造計画」 一等 「大島平和記念公園及び記念館」 一等 「東京都庁競技設計」 一等 「フジテレビ本社ビル」 「電通本社」など作品多数 F「日本の近代」都市へ(前出)394頁 G磯崎新(1931- ) 東京大学工学部建築学科卒 ・日本建築学会作品賞 −群馬県立近代武術館 ・毎日芸術賞 ・英国王立建築家協会 −ゴールドメダル受賞 「北九州美術館」 「ハラミュージアムアーク」 「つくばセンタービル」 「京都コンサートホール」 H「新建築」1986-5 172頁−新都庁舎設計競技結果発表−磯崎新アトリエ I「新建築」1986-5 172頁 J「建築の修辞」磯崎新(美術出版社)210頁 K「新建築」1999-11 63頁 L毎日新聞2001/7/19−〈改革〉選挙の風景−天野祐吉 |
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