□  風景を撃て                                  平成14年10月7日



 建築をつくり、道路、橋、水路などの土木構造物をつくることは身近な街づくり、都市をかたちづくること――記憶の集積である「風景」としての「文化」をかたちづくることに他ならない。一時の熱気でつくられた、あるいは経済性の論理だけでつくり上げられた「風景」は脆弱な「光景」からは逃れられない。「ものをつくり上げる」行為は確かな思想と技術に裏打ちされることによって正当化されるのである。

 「風景を撃て」。著者宮内康(相模書房刊)。1970年代の大学紛争当時、著者の大学で起きた紛争の顛末と都市論。久し振りに書棚から取り出して読み返してみた。東京理科大学の野田キャンパスの無機質な荒涼とした「風景」をなぞりながら安穏とした保守的な体制に対する異議申立てとしての表題「風景を撃て」。日常生活で「風景」は景色や、光景、又景観とも異なった使われ方をする。「街並みの風景」「親子団欒の風景」「練習風景」「出会いの風景」・・・・といった表現で使われ「風景」といった言葉に対して特別の思い入れ、感情となって現れる。

 建築家吉阪隆正は「風景の恐ろしさ」(住生活の観察122頁.勁草書房)を書いている。「車窓から見える日本の山、春まだ浅いその山々は、盛り上がった土の稜線と、その山を包むように生えている雑木林の梢の稜線とが2重となって走り、2つの柔らかな線を描いている。2つの線が互いにもつれ合いながら淡い空との間を区切っている。その美しさに見とれながら、しかし私は何か恐ろしさを感じていた。その景色が恐ろしかったのではなくて、このような情緒の中に纏綿としているうちに自分の心の中の変化が恐ろしかったのである。(中略)そして私たちは、この真の山の稜線の見えない、しかし美しい姿の中で生活しているうちに、いつの間にか冷たい真の山の姿を求める気持ちを失うのではないだろうか。裸にした山よりは、鬱蒼と木の生えた山の方が私たちの心には当たりがどれだけ柔らかいだろう」。ややもすると「風景」は、本質をつつみかくしながら冗長性をもち一人歩きする。

 良いものを確かにつくり上げていく強い姿勢が建築をつくり、都市をつくり、時代精神の反映としての日本の「風景」としての「文化」をかたちづくっていく。とことんまで法則を探り、真理を求めてその理に合致しようというのが「合理」であるなら、その道を歩まなければならない。そんなに簡単に割り切れるものでなく、やはり「非合理」を認めなければならないという考え方に躊躇する。日本の国土は、自然も社会も「非合理」を認めないと成り立たないような世界をつくるのにまことに都合よく出来ている。建築、都市のあり方の中で「合理」を追求し、「風景」が冗長性をもって一人歩きしがちな世界、バブリ−な建築、都市が寒々しく、あるいは喧騒とごった煮と化した「光景」はどこでも見受けられるし、機能を正しく見つめないコストカッティングのもとにつくられた薄っぺらな「光景」を検証し続け、ものづくりに関わらなければならない、「風景を撃て」。文中敬称略(参考文献.住生活の観察.吉阪隆正.1986年.勁草書房)
                                                         (青柳 剛)



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