アンビバレンツな(矛盾した)事かも知れない、「ゴルゴ13」と甘い「チョココロネ」があればいい。「ゴルゴ13」。長い時間乗り物に乗って、もう何にも考えたくない、頭の中は空白にしておきたい、駅のキオスクでマンガ本を買いたくなる。買う本はいつも決まって「ゴルゴ13」。読みきって降りる頃には、もう「ゴルゴ13」の気分、しっかりと風を切って歩き出す。そして「チョココロネ」ほど好きな食べ物はない。小さなクッキーがチョコのふたに付いている今風の「チョココロネ」は駄目。アンパン、クリームパン、ジャムパンが10円だった子供のころ、20円だった「チョココロネ」があれば幸せ気分はもう最高。チョコが先端まで一杯に入っている「チョココロネ」ではない、渦を巻いた少し湿ったパンの間にチョコがチョコッと入ってる「チョココロネ」でなくてはならない。こだわりがある。アンパン全盛の子供時代、「チョココロネ」は小さいころの憧れだったパン。一生の間の好き嫌いはこんな単純な事の記憶の積み重ね、こだわり、によってつくりあげられている。
「モロッコ、タンジール国際建築設計競技」。30年近く前の「中野鍋屋横丁」。設計コンペのために借りているのは、汲み取りトイレ、コンクリート剥きだしのひび割れた土間がある、床がギシギシする傾きかけた一軒家。もちろんその頃だからクーラーなんかない。暑い夏の最中、窓は開け放っているし、首に巻いたタオルで滴る汗は拭うしかない。A―0の大きな図面にしがみつく。先輩たちの国際コンペの手伝い、真剣そのもの。毎日殆ど寝たような寝ないようなことをして朝まで図面を描く徹夜の連続。一本一本のロットリングの線が大事。シンナーくさい両面張りのペーパーセメントの臭いが家中蔓延している。そんななか真夜中にみんなで外で食べる夜食は最高、ほっとした息抜き。殆どの店、オフィスが、街中が、真っ暗になっている中で毎日自分たちと負けずに明かりが点いていたのが、「ゴルゴ13」の「さいとうたかをプロダクション」。自分たちが世界を相手に競争して頑張っていると思っていたのにそれ以上に同じロットリングを持って頑張っている。いつもいつまでたっても消えぬ明かりに沸いてきた勝手な連帯感は糧となる。
「ゴルゴ13」。1コマ1コマの絵がパースがかかって建築的でいい、見ていて使えるものがある。人物描写は勿論だが、背景までデイテールを細かくきちんと表現している事に感激する。主人公の「ゴルゴ13」、それまでの主流であった勧善懲悪の物語とはかなり違う。右、左、保守でも革新でもなければ特定のイデオロギーを振りかざすでもない、ましてや正しいものの味方でさえない、別の見方をすればただの狙撃手。主人公の「ゴルゴ13」の生き方。体制やイデオロギーそして正義は、空しい虚構。世の中の常識、人々が唱える常識は所詮一時の幻想。「ゴルゴ13」は与えられた仕事を確実に実行し、成就する。無口な鍛え上げられた強靭な肉体と精神を兼ね備えた「ゴルゴ13」、冷静に計算しつくされた中で不可能なことを可能にする。既成の枠組みに捉われない、影響されることのない孤独な「人間としての生き方」に読者は感動し、発売以来三十数年経った今でも絶大な人気があるからキオスクで売れ続けているのである。
建築デザインに夢中になっていた多感な時代、真夜中に決して明かりが消えることのない「中野鍋横」の「ゴルゴ13のさいとうたかをプロダクション」の下からいつも見上げて勝手に感動していた光景。今ではもっと美味い食べ物はたくさんある、モノがないときの20円の「チョココロネ」。あこがれていた記憶は決して消え去ることはない。一生の間の好き嫌いは増幅した思いとなってかたちづくられ、ごった煮の中で矛盾した偏愛となって蓄積されていく。「中野鍋横」の見上げていた夜の光景があるから「ゴルゴ13」への身近な気持ちは拭いきれないものがある。「ゴルゴ13」を目指し思いは一人歩きし、激しく筋トレ、汗だくになって帰ってきた時の目の前の「チョココロネ」の味は至福の時。だからいつまでたっても「ゴルゴ13」には成りきれないし、思いとはかけ離れたアンビバレンツな日常が繰り返されていくことになる。
(青柳 剛)
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