□  2010年問題                                              平成15年4月25日


 建築の世界の「2003年問題」は都心でオフィスビルが供給過多になる話。汐留、品川、六本木あたりで数多くのオフィスビルが完成しだした。今月25日には「六本木ヒルズ」がオープンする。地域間競争と相俟って都心のオフィス事情が「変化」する。次の大きな「変化」は「2010年問題」。戦後の高度成長から国民皆総中流意識を持ち始めたのは1970年代半ばから、そして行き着いた先が中の上だと思い出したバブル景気、たった4、5年のバブル崩壊とともにやってきた「失われた10年」、これらすべてを経験、良くも悪くも牽引力となってきた「団塊の世代」。「2010年」には「団塊の世代」が社会の一線から退場して行く。

 「団塊の世代、49年生まれの自分の行動を考えればいい」。1947年、48年、49年生まれの人達が「団塊の世代」の中心。戦争を直接体験し、一番辛い役目を果たしてきた親を持つ世代。もちろん直接戦争体験はなくても親から語り継がれる戦争体験がイメージのうえで増幅されて膨らんでいく。戦後復興、戦前の軍国主義と訣別した民主主義とともに明日への希望、大量の出生者となった「ひとかたまり」の世代が「団塊」の世代。約700万人の「ひとかたまり」の世代が歩んできた生き方が後数年で終わりを告げようとしている。

 「団塊の世代、49年生まれの自分の身近な事をなぞればいい」。半ズボンの下から母親手作りの下着がはみ出ている幼い頃のセピア色の写真、上着の袖は汚れでガサガサ光っている感覚が今でも残っている。バナナは高価な果物、果物の缶詰なんかは病気のとき以外は滅多に口に入らない。真新しい帽子を被って学校に上がれば50人学級が何クラスもある。一学年500人近い。木造の兵舎を改造した中学校舎。夕方には校庭をコウモリが飛んでいた。帽子を投げればコウモリが取れそうな気がして投げているうちにいつの間にか薄ら寒い夕闇。中廊下型の平面配置、昼でも暗い北側教室。人数の多い小中学校のホームルーム民主主義で育ってきた、理性とはかけ離れた感情に走りやすい過激な多数決型民主主義をいやというほど体験した。1960年代の前半が高校生。高度成長期の前半が思春期。東大安田講堂事件に象徴される学生運動も気になりながらも横目で見ているだけ本気になれない。マルクスの「資本論」全盛。左がかった、少しだけ赤い「いちご白書」の映画に自分の青春をアナロジーとして何度も重ね合わせる。

 「団塊の世代、49年生まれの自分の仲間の行動を考えればいい」。大阪万博、日本列島改造論の時代に「団塊の世代」は社会人となっていった。万博、アポロ月面着陸だからいやが上にも「手塚治虫」の描くSF未来都市が本当にやってきそうな気が拭えない。技術と文明が一緒になって進歩する気になってしまう。イメージとしての戦争が頭の中にこびりついているから、疑似体験としての戦争は一人歩きしていく。「団塊の世代」は軍団、青年将校という言葉も大好き。勧善懲悪「水戸黄門」を見る世代とは距離をおく、「ゴルゴ13」の人気は「団塊の世代」が支えている。会社、組織の中での闘争心も軍団、青年将校をイメージして燃え上がっていく。議論好き。歌う歌は「団塊ナツメロ」ニューミュージック、そして今の歌には決して付いていかない。

 「団塊の世代、49年生まれの自分の仲間の言動を考えればいい」。「戦後復興」のために働きづめに働いた厳格な父親の背中を見ているから口数多く原則論を振りかざしながらも良く働く。原則論をふりかざし、「こだわる」「こだわり」も「団塊の世代」の常套句。「仕事をやった」成果より、達成感が大事、成功した結果が出なくても「筋を通した」プロセスに頑迷に「こだわる」。仕事そのものより仕事を「やる気」、仕事を「やった気」に価値を見出す。

 やっと平和な時代がやってきた、明日への希望を持って大量に生まれた「ひとかたまり」の世代、「団塊の世代」。汐留の高層ビル群の間をぬってお台場に向かう「ゆりかもめ」に揺られていると超SF未来都市が本当に到来したような錯覚に飲み込まれてしまう。国民皆総中流、いやそれ以上の生活意識になった中核にいたのも「団塊の世代」。「失われた10年」、厳しい不況の中でリストラにあい続けてきたのも「団塊の世代」。2010年、高度経済成長とバブル、ともに経験してきた約700万人の「団塊の世代」が社会の一線から消えていく。議論大好き「こだわり」、闘争心を燃やす男社会としての企業風土もなくなっていくことだけは確かだ。

                                          (青柳 剛)


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