繰り返される「裏切り」の連続が人生である。「裏切り」に「裏切り」を繰り返していたら国と国の間では行き着く先は何でもありの取り返しのつかない戦争になる。男と女の間では正面切った「裏切り」を繰り返し合っていたら新聞テレビ週刊誌の三面記事にまで辿りつく。「目には目を、歯には歯を」はキリスト教の聖書にも載っている教え、かたや「右の頬をぶたれたら左の頬をだせ」も同じ聖書の中の教えである。「裏切り」は人間社会を営んでいく上でいつも身近な出来事、他愛もない「裏切り」から始まって仲間同士の「裏切り」、会社の中の「裏切り」、国まで動かす「裏切り」がある。「裏切り」への対応は、糧になる。苛め抜かれた小学生は、一人で強い中学生になる。失恋は美をかたちづくり、音楽、詩まで出来ていく。教育を受けられなかった親は子供の教育に目を向ける。経営破綻した会社の経営者こそ米国では人気がある。敗戦国は武器を金に持ち代え経済成長を遂げていく。「裏切り」と「裏切り」がぶつかり合う、「裏切り」の根底に据えなければならない考え方は一歩先を見た「防御」である。
私の父は明治生まれの農家の三男だった。兄弟で15歳も年が離れた末っ子だから田畑を譲り受けて農業をする訳にはいかない。男三人で分けるほどの田畑もない。農家に婿養子に行くか、ただ一人故郷の家を離れ生活の糧を見つけ、人生を切り拓いていかなければならない。良くある話かも知れないが、男兄弟三人の中でただ一人、父は当時の農家にしてみれば分不相応な旧制中学に進学した。父の母は今の医学なら直っていたはず、もう少し長生き出来たと言われてもこの頃癪の病、胆石をこじらせて亡くなった。授業料も長兄がロシア、ハバロフスクの戦争で傷ついたことによって与えられた勲章のおかげで免除、旧制中学に入ることが出来たと父から聞かされてきた。旧制中学を卒業と同時に父が目指したのは旧陸軍士官学校、金のかからない学校を選ぶことによって親兄弟の援助を求めることなく父は東京へと出て行ったのである。常にどこかで戦争が渦巻いていた時代の日本、旧陸軍士官学校を足がかりにした人生の将来像を描きながら故郷を離れ、父は前途洋々とした自分の活躍する場を見出し、それは確かな手応えとなって積み上げられていた。
戦後、父が故郷に戻って少人数の仲間と始めたのが今の会社、50年以上の歴史を積み重ねてきた。創業時の人達も高齢になり殆ど入れ替わり、創業時から今までの貴重な経験を語り継ぐ事の出来る人は社内でもうただ一人だけである。平成6年に私が社長になって会社を引き継ぎ、10年近く経ったことになる。この10年の間、父の歩んできた人生と会社の舵取り、考えさせられるものがある。戦後復興から始まり、右肩上がりの建設投資の波に乗りながら父は会社経営をやってきた。父の経営の姿勢は、石橋を叩いても渡らないぐらいの慎重さが根底にあったことを引き継いだ私の気持ちから拭えない。決して背伸びはしない、手持ちの金の中で経営を考える。無理して金を借りてまで事業の拡大を計らない。現金決済に終始する。自分の財布の中身を考えながら行動していく。明日のリスクに備えて内部留保に目を向ける。広く社外にまで会社の株を持ってもらうことは民主的な経営手段かもしれないが本当に信頼できる社内の人にしか株を持ってもらわない。資本金も大きくしない。もちろん土地も買わない、金銭保証人の判は決して押さない。経済が急成長を遂げていく中、もどかしいぐらい背比べをしない、流れに乗らない経営者だった。
慎重すぎるほど慎重に経営をするのが父の経営者としての後姿。時には小心とも思える父の姿勢に歯痒さを感じたこともある。出来ない役職、名前だけの役職には頼まれても就こうとしない、頼んだ人を「裏切る」ことになる。対外的な人間関係も含めて事業を続けて歩んでいくには「裏切り」を乗り越えていかなければならない。感情のぶつかり合いの「裏切り」もあれば金銭的な取り返しのつかない「裏切り」のリスクもある。「裏切り」の連続が人生であり、「裏切り」への対応は人生の糧になる。不安な明日、準備しなくてはならない。予測される「裏切り」に対する「防御」が父の手探りの経営姿勢だった。父が10代の頃に起きた母の死も不測の「裏切り」、父は早くから自分の子供を医者の道に進めようとした「防御」の思いをそのまま私の弟に振りかえた。順風満帆だったはずの40歳近くまでの父の人生、敗戦とともにゼロ、父にとってはそれ以上にマイナスの衝撃だった。国家が将来を保証してくれていた、確かな手応えとなって積み上げられてきたそれまでの父の人生は「裏切られた」のである。戦後の父の人生は、起こりうるはずのない信頼していた国家の「裏切り」から学んだ不安と背中合わせ「防御」の繰り返しだった。厳しさの中の「防御」は糧、自分を高めること、学ぶことに目が向き、「知」が培われていく。
陽炎がゆらゆらと立ち上がり路面が焼け付くような暑い年の夏、平成6年8月15日、終戦記念日の日に父の不安な人生は静かに幕を閉じた。父の歩んだ丸くなった後姿を垣間見ながら私は会社を引き継ぎ、私の人生の中になぞり続けている。
(青柳 剛)
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