感受性豊かな心も身体もキラキラしているのは10代から20歳代後半まで。豊かな感受性をキラキラ思い切り高め創作活動に打ち込んでいく。見るもの聞くもの何にだって敏感にキラキラ反応する。敏感に反応していくからつくり上げていくものはキラキラ輝く良いものが出来ていく。若さは明日を考えない、時には無謀とも思えるほどに熱中する。気力も体力も使いきって、考えてもいなかったキラキラした明日が見えてくる。千葉の館山、寒風吹きすさぶ中、海岸で足を取られながらも着実に走りぬいた若さは足腰を鍛えるのに十分役に立ったし、夏のかんかん照りのなかでも汗まみれになった北軽井沢の小学校の校庭を使った夏の合宿はそのままその後の無謀さを乗り越えるに十分だった。20歳近辺のこの毎年続けていた体力づくりがしばらくキラキラした若さを持続するのに役立った。
丹下健三も黒川紀章も菊竹清訓も磯崎新もその当時の建築家は建築設計競技、世界の中で国際建築設計競技を勝ち抜いてきて建築家としての地位を確立してきた。パリのポンピドーセンター国際建築設計競技、シドニーのオペラハウス、国際建築設計競技の逸話を挙げていけばきりがない。国内でも広島平和記念聖堂から始まって最高裁判所の建築設計競技、又最近は全国各地で公開国際建築設計競技実施の波、世界各地からたくさんの建築家が応募参加している。プロポーザル設計競技は設計者の個人的な今までの資質を推し量る手法、公開建築設計競技は作品に込められたコンセプト、情熱が評価されるから面白い。未知の能力が試される。一回限りの勝ち負けだから建築家を目指す新人にとっては千載一遇のチャンスである。1970年代くらいまでの建築家台頭の歴史は公開建築設計競技と共に歩み続けてきたと言っても言い過ぎでない。
先輩の設計競技の手伝いだけではつまらない、建築家の事務所に行っての設計競技も嫌というほど参加して来た。図面の描き方はもう自分たちの方が上だし、プレゼンテーション能力もいろんな蓄積が出来てきた。そして若いんだから感受性だけは負けないものがある。建築家の登竜門の国際建築設計競技に参加してみようと思って決めたのは今では大学の教鞭にたっている後輩と自分の2人。どうせ参加するなら大きい実施プロジェクトの公開国際建築設計競技がいい。きっと自分たちの糧になる、修士論文を書いている暇がなくなっても論文ぐらいは年明け最後1ヶ月もあれば何とかなる。勝手にそう決め込んでエントリーしたのが夏前の「マニラ国際建築設計競技」。応募資格は一級建築士だけだから有名設計事務所にいっている先輩の名前を借りて申し込んだ。
先立つものは「金」、金がなければ設計競技を続けていられない。余分な金はなくても最低限の金があればいい。準備に取り掛かる前にしなくてならないのは金の工面である。早速模型作りのアルバイトを見つけてきた。4-5日もやればとりあえずの準備金にはなる。あっという間に仕上げて準備金は手にした、それでも足りない分はどこかの設計事務所から下請けでも受ければいい。見つけてきたのが地方都市の中心市街地の再開発のプレゼンテーション用の簡単な報告書、あちこちの報告書を切り張りしながら500分の一の簡単な模型まで作って仕上がった。このときの思いがあるから今でもあちこちの行政、団体がコンサルタントに頼んで出来上がってくる街づくりの報告書、どんなにきれいなパースが書いてあっても眉唾物で信用できない気持ちは拭えない。どうせまた訳の分かっていない地域の状況もろくに理解していない駆け出しの設計者がどこかのプロジェクトを焼きなおししているんだと。
村上春樹の「ノルウエーの森」を読めばいい。何人かで設計競技の案を練ったりコンセプト作りには狭くても場所がなくてはならない。夜に集まってエスキースを繰り返すから交通の便が良くて夜中に腹が減ってもいつまでも開いている店があるほうがいい。もちろん安い家賃のスペースに越したことはない。仲間の家に押しかけていくには限度がある。結局悩んで借りたところが目白の千歳橋あたり、近くに鬼子母神、雑司が谷墓地まである。早稲田車庫から荒川までの東京で唯一残っている都電が時間の流れを忘れさせてくれる。後で必要になって来る画材屋とも近い。夜の池袋にも近いから食事の心配はない。憧れの山手線の内側、まして明治通りの内側だからその当時でも今の24時間都市に近かった。目白は面白い、学校は学習院に始まって、日本女子大、川村学園そしてデザインの専門学校まである。早稲田に向かってなだらかな丘陵になっている。落ち着いたお洒落の雰囲気と鬼子母神前の生活がにじみ出ているミスマッチが面白い。去年解散した汗臭いベルボトムの「カコスコ劇場」の雰囲気の世の中が変わりだしたのもこの頃、「ノルウエーの森」そのままの青春を数ヶ月送ったことになる。
設計競技の要項はもちろん全部英語、しゃべることは出来なくても翻訳ぐらいは何とかなる。何とかならないのは、設計するのに現地の敷地と雰囲気が分からないこと。フイリッピンのマニラに行かなくてはならない。今みたいに簡単にはいけない、世の中がそんな雰囲気ではない。簡単に海外に行く状況ではない。結局、応募している設計事務所が現地の写真とビデオ取材を頼んだ今ではプロの建築写真家になった知り合いの写真家についでに情報提供してくれることを頼んで終わりにした。週何回かの大学付属の建築専門学校の助手の真似事をやっているときに知り合った建築写真家。その後建築雑誌に良く載るようになったがその頃はほんとに成り立ての写真家、学生の作品をスライドに撮るぐらいのことをやっていた。授業が終わって二人でいつも帰りに高田馬場の喫茶店、そんな付き合いの間柄だからマニラの写真とスライド、ビデオは敷地を見ないでもかなり役に立った。現地の状況が分からなくても行って来てくれた写真家のアドバイスは貴重だった。
20万人が住むニュータウンを計画する案を提出するのが今度の国際建築設計競技の目的。マニラのそばにかなりの低所得者の住民が不法占拠に近いかたちで住んでいる一帯を新たな街づくりへと提案しなければならない。おまけに殆ど職のない人が大半だから新たな街づくりに住民一緒に参加できる案の提案が求められる。住民が一緒に参加できる案はニュータウンをつくりながらそこで大半がただ何もしてない生活をしている住民の職まで見出すことである。技術力のない住民が大勢参加できる施工方法を考えなくてはならない。SELF−AIDで新しい街をつくっていく工法と人が集まって住むことのコンセプトづくりにエスキースは注がれる。
ブロック造と木造の組み合わせ、ブロックのかたちを考えた。自分たちで建築をつくっていくから出来るだけ簡単な工法のブロック造に落ち着いた。ブロックは敷地内で簡単に技術指導すれば作ることが出来る。ただのブロックの形状ではつまらない。ブロックの型枠まで考えた。いろんなバリエーションが手軽に出来る形状がいい。組み合わせ次第でいろんなタイプの住居が出来れば街全体の雰囲気も面白くなる。建物の構造躯体はもちろん、街区全体に同質のブロックを使うことによって一体感を出すことが出来る。水のみ場、歩道のペーブ、バリエーションは果てしなく拡がっていく。それにしても決められた狭い一戸あたりに何人も住む住まい方には悩ませられた。狭すぎてどうやって寝るのか分からないし、想像もつかないし、工夫のしようがない。それでも何とか住居のプランはおさめて、中庭を持った6戸―10戸の単位の組み合わせから始めて、街区をつくり、ようやくニュータウン全体像をつくりあげた。
途中から何人か仲間も増えて狭い千歳橋のアパートで計画のアウトラインが決まったのが夏も過ぎた九月の半ば過ぎ、提出期限は10月半ば前、時間がない。時間がなければ一気に仕上げるには人手とスペースが必要になってくる。悩んだ末に大学の製図室の一角を借りることにした。時間にますます終われていくから最後は時間との戦い。まずいことにまだ学生運動の名残が大学に残っている、徹夜で作業が出来ない。門限がある。世界を相手に戦っているんだから門限なんか関係ない、何とかしなければと思っていたら話は簡単、守衛が廻ってくる時間だけ誰もいなければいい。いったん外に出て守衛が廻りきったら又戻ってきて結局は徹夜の繰り返し。それでもそんなことが最後まで続く訳がない。えらく守衛の人のプライドを傷つけた結果になって、学部長宛の始末書まで朦朧とした頭で書かされることになった。
大きな全体模型と住居の構造模型まで作った。今みたいにパソコンがあるわけでないから全部手書き。ロットリングのインクはどんどん減っていく。何がなんだか分からないぐらい間に合わなくなってきたから手伝いの人も誰が呼んできたのか分からないくらい沢山いる。よほど何人かがしっかりしていないと全体像が分からなくなってしまう。設計概要の英文のレポートまで書かなくてはならない。ただ時間をかければいい作業と冷静にまとめ上げる思考作業も部屋の片隅で仕上げていく。いつももうとんでもない作業に提出間際はなっていくとは思っていたけど今回はかなりきつい。精神力の集中とそれを裏打ちする体力がどれだけあるかにかかっている。こういう時に春夏の合宿の成果はかたちになってあらわれてくる。模型も写真家に撮ってもらい、図面も張り込み作業が終わって全体コピー仕上げでなんとか終わった。後は規定の梱包に合わせて、何とか夜中の大手町の国際郵便局に持ち込んで終わり。
何かを仕上げた脱力感は尾をひく。薄ら寒くなった秋風と共に日も短くなっていく。春先から秋口に終わった国際建築設計競技もアルバイトから始まって千歳橋、そして無謀さむき出しの提出間際の高揚感の静まりと一体になって尾を引く。画面を見ているようで見ていない映画館とひたすらジャズを聴きながら何もしないでコーヒーを飲む。もう少しあそこをこうすれば、エスキース不足だったとかの気持ちは不思議に湧かない。一緒に頑張った仲間と会っていても出した案のことは触れない。建築の本を読み漁り建築を見に行く。ただ脱力感がなくなって次のチャレンジへと向かう気持ちが高まってくるのを待つだけ。それでも驚いた、緊張している間はいい、気が抜けた時が問題、徹夜続きが終わって久しぶりに銭湯に行って帰ってきたら気が抜けたのと同じ、髪の毛まで抜けていた。きれいに円形に脱力感と共に抜けていたのである。
暮れも押し迫った夜、相変わらず今度は後輩の家で図面描き。そんなときに舞い込んできたのが忘れていた建築設計競技のキラキラした審査結果。上位7点に選ばれたキラキラした結果が舞い込んできた。世界中かなりの設計事務所が参加した中20歳代のキラキラした若いチームが入選するのも珍しい。秋口に青山のショウルームで日本の参加したチームで作品を持ち寄り、合評会をやってみたけど他のチームよりキラキラした中身が濃いからかなりのところまでいくとは思ってはいたが入選するとは思ってもみなかった。キラキラした若さは無謀とも思えることに挑戦する。明日のことはどうなったっていいくらいの気持ちを抱くのが若さとキラキラした感受性。新宿百人町、予備審査員だった建築家の先生のお宅に夜訪問したのは年が明けた正月過ぎ。先生が話される審査経過の中身は興味がある。図面にかけたエネルギーとキラキラした表現が他のチームを圧倒していた。最初はもっと上位にいた、図面を見ていくとだんだん中身の荒さが見えてくる。技術も社会も良く分かっていないんだからしょうがない。ただキラキラした若さだけで押し切っていった、勝ち取った国際建築設計競技だったのである。それでもいつもこの辺のキラキラした青春の1ページとの距離を測り続けることを忘れない。
(青柳 剛)
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