何気なしに手に入れた本、「北越雪譜」の翻訳本。越後の人なら誰でも知っている名作古典。地元の中学校の先生が現代文に翻訳している。原文はとても難解そうだが若い人が読んでも分かりやすく抜粋して書いてある。明和7年(1770年)越後の塩沢に生まれた文人鈴木牧之が40年近い歳月を費やして完成した。質素倹約を生活の基本に据え縮み仲買と質屋だった鈴木家を塩沢屈指の名家に築き上げたという。家業に専念しながら鈴木牧之は雪国越後の民俗、習慣、伝説、産業について自分自身の足で歩き、見聞きしたものを「北越雪譜」として書き残し、多くの人たちに愛読された。厳しい生活の中から読み取った「北越雪譜」から問いかけてくる世界には本物の世界がある。和辻哲郎、今和次郎などの忠実なフィールドノートの世界、民俗学を思い起こさせる。
今ではもうそんなに雪も降らなくなったが越後魚沼の雪との厳しい戦いは想像を絶する戦い。雪を掃うことは「落花を掃うが如し」と風雅な世界であると言われても当時の越後の雪は風雅とはとても思えない。降った初雪をそのままにして置けばついには3メートルを越していく。一度降れば必ず一度掃うことの繰り返し、越後の人たちは「雪堀」と呼ぶ。土を掘るように雪を掘ることである。歩く道も出来ないし、家も埋まってしまい外に出ることが出来ない、そしてそのままにしておけば家そのものが壊れてしまう。「雪堀」に欠かせないのが鋤、「木鋤」という。材料はブナ、折れにくく弾力があって軽い。何十人もの共同作業でいっぺんに一日で仕上げていく。何日もかけて掘っていたのでは次から次に降り積もる雪で手がつけられなくなってしまう。それでも折角掘った雪も一晩しっかり又雪が積もれば又同じことの繰り返し。かかったお金と人力は想像を絶する。一度掘れば一番掘り、二度掘れば二番掘り、一冬に何番掘るか分からない。こんな表現で幅広く雪との戦い、雪で命を落とした悲劇、地域の伝説を織り交ぜながら「北越雪譜」はフィールドワークから学んだ事実をありのままに表現する。
暖かい地方の人たちから見れば白く輝く雪に花や月と同じ美しい感情を抱く。雪国の人にとっての雪はつらい存在以外の何ものでもない。しかし厳しい雪の環境だからこそ生み出される知恵がある。半年近くに渡って雪に埋もれてきた中から生まれてきたものには「美」がある。雪に埋まれた長い間、家内労働として織り上げてきた越後上布縮みがあり塩沢紬がある。手で糸を紡ぐには雪に覆われた家の中の湿った環境がいい。越後でも雪の降る魚沼地方だけの織物である。雪に晒す。2月から3月始め、降り積もる雪が峠を越した頃、あたり一面真っ白な雪原の上で麻の越後上布を真っ白に染め抜いていく技は雪の越後ならではの知恵そのものである。太陽熱で雪が融け、その蒸気が布目を通して蒸発する時にオゾンが発生して布を白くしていく。それまで長い深い雪の生活の中で紡がれてきた越後上布の「美」が花開くときである。雪の精気の産物である。「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上に晒す。雪ありて縮みあり。されば越後縮みは雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮みの親というべし。」(北越雪譜)
雪が少なくなったといっても大雪が降る時は今でも激しく降る。数年前まで毎年何回か出かけていた小出から奥に入る湯之谷。三月に訪れてもあたり一面雪の世界。道端の雪は本当に覆いかぶさるような勢いだった。雪色一色だったからいつの間にか反対車線を走っていて対向車の向かってくるライトに驚かされるほどまだ雪は降る。厳しい雪との戦いの中からいろんな共同体としての意識が芽生えていく。雪国から生まれてきた政治家の思いは雪との厳しい生活を振り払うがごとく強い意思、感情となって一時代をかたちづくっていった。そしてイメージの象徴として県境に立ちはだかる山の壁を突き崩す思いは「日本列島改造論」に転化された。厳しさの中から生み出されるエネルギーは良くも悪くも時代まで変えていった。雪が生んだ手作りの越後上布は、小千谷縮と共に国の重要無形文化財、親子三代袖を通すことが出来る。袖を通せば通すほどしなやかな風合いになる。汚れたら又雪に晒せば綺麗に元に戻っていく。全国各地で愛用されていた越後上布を雪に晒しなおすことを「里帰り」と魚沼の人達は呼んでいる。夏に袖を通す越後上布の冷たさは雪の冷たさから生まれたもの。厳しさの中から生み出されていくものには忘れていた本物の貴重な姿がある。来年は「里帰り」、写真でしか見たことのなかった「汚れを晒す」越後上布晒しを見てみたい。きっと貴重な本物の価値が見えてくる。
(青柳 剛)
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「北越雪譜」 (「きものサロン」 02夏号より)
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