1本のワインと百万円、並べられたらどちらを選択するかと聞かれても答えは言わなくても出ている。自分たちの選択肢がいつも正しいと思っていても、そうではない選択肢がある。自分に有利、得になるかどうか目先の欲の判断をいつもしてしまうことからなかなか抜けきれることが出来ない。どんな場面でも同じような判断を繰り返してきた。先日、私たちが取り扱っている工業化住宅のディーラーが集まった研修会が終わった後の懇親会、メーカーのトップの話には考えさせられる中身があった。百万円でも他の10本のワインでもなく自分のつくり続けるワイン1本に頑なにこだわり続ける判断の選択肢がある。
隣の県でワインをつくっている。私たちの工業化住宅のラベルが入ったワインをつくっている。メーカーとどういった関係にあるか分からないがメーカーの役員だった人が経営に参画している。特徴的なのは知的ハンディキャップを背負った人達がつくりだすワイン工場だと言うことである。知的ハンディキャップを背負った人達がこだわりを持ってワイン製造に取り組む姿勢には、私たちには考えられない格別のものがある。ひたすら自分の作りだすワインに丹精込めていく姿勢が先日の懇親会での1本のワインの話に集約されていく。別の10本のワインに目が向くことはないし、ましてや百万円でもなく自分の作り出すワインにこだわり、自信を持って選択する判断基準を私たちは持ち合わせていない。
「ああ、善行をしたね」、反対側の道路から手前の道路に戻りながら90歳になろうとする母が小さな声で呟いた。身体はいたって丈夫でも所詮、年齢には勝てない。要介護の度合いは毎年少しずつ確実に上がってくる。一言で表せば「振り返れば忘れている」。そんな状態だから身内の気の使いようは傍目で見ている人には分からない辛さがある。誰かが見ていないととんでもないことになる。場所の感覚はもうきれいに無くなっているし、時間の観念もない。本人はそれだけ他人にぶつけるイライラは募っていく。被害者意識は尋常ではない。介護の本に書いてあるとおりの毎日が繰り返されていく。時間の過ごしようがなく、どうしようもなくなった日曜日、反対側の道路の歩道の草取りを母と始めた。次から次へとただひたすら草取りに熱中していく母の草取りが終わった時のそれまでと違った、しばらく振りのにこやかな顔、「ああ、善行をしたね」の呟きだった。
何本もワインがあっても飲みきれないから1本で良いと言う素朴な感覚だったかも知れない。そしてそんなにお金があっても使いようがない、自分が丹精込めてつくったワイン1本に価値があると言う判断は心のこもった素直な選択肢だ。歩道の隙間から出ている雑草を大して気にも留めないで歩く危うさ。共に知的ハンディキャップを背負った人の行動、判断基準から考えさせられるものはある。ただひたすらにひとつの事に熱中していく、ものつくりの原点だし、要介護度が上がっていっても他人のために何かをしたと言う感覚は呼び覚まされてくる。何が正しくてそうでないか、損得だけでない判断基準、行動の選択肢があることを忘れてはならない。今の時代、1本のワインをいかに楽しく有意義に飲むか、身近な地域貢献のあり方、原点に戻った丁寧さが問われている。百万円より1本のワイン、今度の研修会は隣の県のワイン工場で開催されることが決まった。ワインの味は最高かも知れない。
(青柳 剛)
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