大早館異聞                                                   平成15年8月1日


 もう一度「大早館」。建築に付きまとうのはいつも社会性、設計者と施主そして施工者との間隙を埋め続ける作業こそが設計作業である。差異を、ずれを確認し続ける作業である。「大早館」から始まった設計作業は純粋培養、差異もずれも認識することはなかった。あるとすれば出来上がった作品に対しての評価する側とのずれと設計作業の限られた時間との格闘としての妥協しかなかった。建築に対してのストイックな作法はますます醸成され、「大早館」の雰囲気がそれに拍車をかけていったのである。追い詰め続ける作法は社会とも幻想としての「大衆」からも離反していく。そして「個」としての自分自身を参照することに帰着する。

 離反していったのが「大早館」の先輩の生き方。その後の先輩、風の便りに聞こえてくる。「建築決別宣言」をした先輩は塾の講師に身を置き換えることによって社会との関わりをもち続けた。多感な大学生予備軍に数学を通して人生を語っていく。予備校としての塾だから学校としての規制はもちろん少ない。目的ははっきりしているから教える側の論理は明快だし、エネルギーをかければかけただけの成果は報われる。俗っぽい付き合いとは無縁の世界を送り続けることが出来る。ストイックな建築への作法をそのまま教育に振り替えた先輩は、いつの間にか塾の講師から人間の命を預かる医学専門の予備校へと目を向け、自分で切り開いた予備校の経営者になった。「大早館」の純化された情熱が医学を目指す若い人にとってかけがえのない羅針盤として転化され、多くの医学生を生み出した。

 昭和45年11月25日に起きた三島由紀夫事件と「大早館」が繋がることはあまり知られていない。「大早館」に出入りしていた当時の建築学生でも殆ど知らなかった。45歳の老いに向かい始めていく肉体へのどうしようもない不安と日本の国のかたちを憂えるストイックな美学との差異が三島事件を引き起こした。深まり行く秋に起きた事件は大学生になりたての自分たちにとって衝撃的な事件だった。三島美学に共鳴した若い学生たちが夜を徹して日本の国のかたちを考え悩んだ場のひとつが「大早館」。国を憂える美学を純化させていったのが「大早館」。そして先輩がたまたま間借りしたのが事件翌年の「大早館」。事件当日「大早館」を朝早く出た3人は三島邸を廻りその後市谷の自衛隊での事件、身体を持って社会に差異としての美学を問いかけた。追い詰め続ける美学の背景として漂う「大早館」の雰囲気は、若さと共に不安な建築論を導いた。

 追い詰め続ける作法は社会とも「大衆」からも離反していく。「大早館」での純化された思いは右か左か別にして、三島事件の思いと輻輳する。純化される「個」の存在を建築の設計に見出し続けることの怪しさを嗅ぎ取り、先輩は別の道を見出した。「大衆」という幻想の論理に基づいて設計作業を推し進めていくことは、「個」としての自分自身を参照することに帰着し、設計者個人の観念との差異、ずれを認識、確認していく作業に他ならない。差異、ずれの中から「個」としての自分自身を高め続けていくのが設計作業。純化された思いを薄めていくのが老いを重ねる人生、いつも薄まることのない「大早館」の自分自身が居るはずだと思い続けるから不安な人生を歩み続けることが出来る。

                                          (青柳 剛)

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