「手を見ない日はない」、30歳ぐらいまで指輪をしていた。建築家吉阪隆正先生デザインの指輪を気に入ってしていた。表と裏が、内部と外部がいつの間にか反転するメビウスの輪を指輪としてデザインした指輪だった。建築家の卵としてのアイデンティティーのひとつだったのかも知れない。銀のメビウスのごつい指輪が痩せた20代の指に似合っていたと思っていた。生まれたときから指は長いほうではない。生活の変化と共に指が太りだしてから急に指の短さが目立ち始めていつの間にか建築家の卵としてのメビウスの輪を外してしまった。「手は生活そのものを表現する」
「手を使わない日はない」、良く働く手は、良く働く脳。頭と直結するのが手、考えたことを文章にしていくのは万年筆を持ったペンだこの出来た手だし、食べたいものを口に運んでいくのも箸を持った手。道具は殆どが手の延長としてつくられている。叩く、削る、切る、引き抜く、彫る、折る、貼る、塗る、大工道具もそうだし、建設現場のスコップから始まって建設機械もみんな手の延長だ。頭の機能と直結するパソコンもキーボードを打つ手がなければ機能しない。そして日焼けした力強いごつごつした大きな節のある手は肉体をきちんと使いきった職業の手になるし、力強くても細くて白い長い指は音楽家の手だった。「手は職業そのものを表現する」
「手を考えない日はない」、手作り、手触り、手のぬくもり、手が付いた表現はみんな温かみのある素朴な感情がこもったことの代名詞になる。草の根手作りは、素人が集まった勝手連的な選挙手法にも置き換えられる。手相を見れば勝手に運命線まで気になって考える。やさしく自然に手を合わせれば亡くなった人を弔う気持ちを考えながらの表現になる。握手の仕方で相手の思いは伝わってくるし、おまけに手の暖かさが妙に連帯感まで培ってくる。厳しく大きな拳骨ではたかれたのも小学生の頃の先生の教えのひとつだったし、大きな暖かい手で頭をなでられたのは父親の優しい手だった。そして手は何か間違えたことをしても頭をかきかき誤って済むのに役に立つ。「手は感情そのものを表現する」
「手は人生そのものを表現する」、年齢を感じさせ隠すことが出来ないのが人間の首筋。いくら若作りに着飾っても首筋の老いた感じは拭えない。年を重ねるごとにまず首筋に出てくる。手も首筋と同じくらいに年輪を感じさせる。手のしわ、しみ、浮き出た血管、年とともに刻まれてくる。首筋より悪いのは毎日手を使い、簡単に直接目に見えるのが手であること。首筋は鏡を通して目に入ってくる。めがねを外したって近づけば手の皺のひとつひとつまで見えてくる。重い病にかかって黙ってみるのは手、そう言えば父もじーっと病院のベッドの上でいつも手を見ていた。自分の歩んできた人生をなぞっていたのかもしれない。細くなって生活が変わったら、又嵌めようと思っている建築家の卵の象徴だったメビウスの指輪、なかなか嵌められそうにない。もう嵌めるときは水をすくうにも大変な、向こうが透けて見える、じーっと見つめる細くなった指のときかも知れない。「手を見つめるだけの日は必ずやってくる」
(青柳 剛)
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