先週、たまたま何年かぶりの12月の大雪になった丁度その日の夜、持ち時間は1時間、地方議会議員の集まりで講演を頼まれた。話す中身は話し手の自分に任されたといっても建築デザイン、都市計画の話ではどうも1時間の間に聞き手は退屈してしまうかも知れない。やはり政治の話、特に選挙の話が興味があるんだろうなあと勝手に解釈して一気にまとめ上げることにした。人前で話すのは自分にとって役に立つ。持っている資料と今まで考えていたことを整理するのに好都合、ましてや言葉で声に出して話すんだから話す中身は身体化しなければ到底1時間は持たない。この1年、政治の世界では選挙に明け暮れた年だった。そして予定調和の中で行われてきた政治の世界に持ち込まれた「マニフェスト」選挙は、政治、選挙のあり方を変える動きになっていく。
「マニフェスト」は「はっきり示す」というラテン語。政党や候補者が選挙の際に有権者に具体的な政策目標を数値で示し、財源や実施の手順、時期などを明示する公約集、「政権公約」のことである。英国労働党が97年の選挙で「国民との約束」として掲げ、広くその手法が知られるようになった。日本では今年の1月26日三重県四日市市で開かれたシンポジウムで当時三重県知事だった北川正恭氏が「マニフェスト」導入を4月の統一地方選挙に向かって提唱することによって知事選で拡がりを見せた。「マニフェスト」が今までの政治家が選挙向けに出していた公約と異なるのは「外向きの公約」であること、「内向きの公約」は選挙が終わるまでの「公約」。もう少し言えば今までの「公約」は「破られるべき公約」だった。「マニフェスト」選挙の大事なことは外向きの守られるべき「公約」で選挙が行われること、事後検証が行われ、政治家にとっては苦い薬、情実からの脱皮政治が求められていく。
確かに雲をつかむようなとらえどころのない状況になってきた。大きな風でも吹いていなければ有権者の投票行動はまったく読みにくい。候補者が一軒一軒廻ってどぶ板選挙をやってもなかなか全体が見えてこない。ましてや後援会名簿をどんなに取ってみたって後援会名簿通りの票は読みにくい。一言で言えば「票読み」が難しくなったということ。十七〜八年前までは地区の選挙通が読む「票読み」は殆ど当たっていた。世論調査自体が無意味だった。あそこの家は○○候補こっちの家は××候補と地域の選挙通が読む「票読み」のほうが正しくそしてその通りの結果が出ていた。89年の総選挙「おたかさんブーム」あたりから変わりだしてきた。地縁・会社・労組の枠組みだけでは有権者の投票行動は読みにくくなってきた。そういえば身の回りでも親が〇〇候補でも子供はどうも違うなんて例はたくさん出てきた。雲をつかむような状況、選挙離れかもしれないが「自立する有権者」(毎日新聞11月4日)と置き換えて考えてみる必要はありそうだ。
「国のかたち」をはっきりと示し、具体的な手順でつくりあげていくのが政治。首相がその程度の公約違反は大したことでないと言ったのも今年だった。「マニフェスト」に向けられた目は厳しい判断を下していく。「マニフェスト」選挙はTAXPAYER(森の声7月21日)としての意識が高まりつつある国民に対しての公約選挙。小選挙区制の下では二大政党制、政権選択選挙に向かうのは自然の流れ、それを支えるのは「マニフェスト」選挙。負けた「マニフェスト」はチャラ。この間の選挙では、確かに「マニフェスト」を参照して投票行動に移した有権者は1割程度だったかも知れない。組織の枠組みが希薄になればなるほど「自立する有権者」は増えていく。個が自立する。「自立する有権者」にとっての判断材料は守られるべき公約「マニフェスト」が大きな意味を持つ。提出された「マニフェスト」を事後検証するのは、国民、有権者。次の選挙で跳ね返ってくる。政治家が行政に変わって責任をとる本来の姿。政治、選挙の流れが変わる大転換の年の始まりだった。主権在民。
(青柳 剛)
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