真っ当な成果主義、「十匹の蟻」を書いたらいろんな意見を頂戴した。「内側から見た富士通成果主義の崩壊」(日経BP企画刊)。90年代初頭、成果主義を他企業に先駆けて推し進めていった富士通、一言で言えば社員の心まで不良債権化しだして経営危機にまで落ち入ってしまった。取った次の策が個人から小チームの目標設定の成果主義への転換だった。もう少し言えば当時心が不良債権化した富士通の社員が自社の製品を買わなくなってしまったことも大きくマイナスに働いた原因だと言う人もいた。人を評価するのは一流企業の人事でさえこんなに難しい。成果主義で失敗のスパイラルに落ち込んだ組織の話は今後も尽きる事はない。今日の話は人がつくりあげていく「もの」の評価も簡単にはできないと言う話である。評価する側に立ったら、自分も評価されていると言う当たり前の論理認識から出発しなければならない。
国土交通省が「工事成績評定の統一」。こんな記事が先月の朝日新聞の一面記事に載っていた。国の発注機関も沢山ある、そのほかに地方自治体の発注工事も加えればいくら公共工事が減ったといっても全国毎年相当数ある。出来上がった工事を成果品として発注者に納める。当然付いてくるのが工事の出来栄えから始まってつくっていくプロセス、創意工夫、現場技術者の資質と対応などを評価した工事成績である。一般の人が読んだらこんな事も出来ていなかったのかとも簡単に思われて読み流されてしまう朝日新聞の記事、実は中身は各発注者別の評価基準がまちまちだったのを統一することに決めた記事なのである。確かにそう、同じ建設会社が工事をしているのに発注者別の評価が異なるのはおかしな話である。ましてや評価の全然ない、出来ない自治体だって沢山ある。統一基準で評価なら目標が定めやすくなる。後は発注者がすべての工事評価を何百万件のデータベース化に出来ていれば建設会社の優勝劣敗をつけやすくなる仕組みになる事は確かだ。
建築設計の評価の登竜門になるのが建築学会作品賞、この賞の評価もいろいろ言われてきた。日経アーキテクチャー(2005 1−10号)、「横浜ターミナルはなぜ建築学会賞を取れなかったのか」で特集を組んでいる。この作品に対して受賞して当然の意見もあれば、受賞しなくてホッとしたまで意見はもちろん分かれている。どちらかと言えば建築としての話題性を考えると受賞すると考えていた人の意見が多い。選考経過ではこの作品に対して作品のオリジナリティー、実現へのプロセスの甘さ、コストを含めた技術的な押さえの甘さが指摘されている。それでもやはり気になるのが発想の柔軟性、設計者の将来に対する期待性と言う点ではかなり評価の高い作品になっていてもそれだけでは学会賞を受賞できなかった事である。もっと言えば「学会賞らしさの建築」からはみ出たから評価が落ち、選考から外れたのかも知れない。
題名が「○○船」、敢えて具体的に題名を書かないけれども数年年上だった先輩の卒業設計の事が思い出される。見事に大学の教授たちの評価が分かれたのは当時有名な話だった。最高点をつけた先生もいればこれは建築でないと言って点数をつけられなかった先生もいたと言う。どれが平面図で、立面図がどれなのか、断面図も見ようによっては平面図に見える。全部フリーハンドの卒業設計だった。結果は卒業設計で話題になっても賞をとる事は出来なかったが、ほかの新聞社のデザイン賞では見事評価が違って最高賞をとっていた。先輩は、今では新聞、建築雑誌でたまに見かける有名な大学教授にまでなっている。確かに世の中全般の流れは評価、評価の掛け声とともに流れている。建設工事成績の統一評定もますます煮詰められていく。評価基準が整備されるのは良いこと、それでも問題なのはきちんとした評価を評価する側が出来ているかどうかにかかっている。工事はプロセスが大事、プロセスは人を評価することに集約されていく。人を評価する人は難しい。ましてや公共工事の発注者は間接的な顧客、陰に隠れた真の顧客は国民であるから一層難しい。遊んでいた「十匹の蟻」、とんでもない餌場を見つけてくる時もある。「評価する側、される側」、尽きる事のないテーマである。
(青柳 剛)
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