人生は短いと思えば結構長い。ところが、長いと思ってのんびり何もしないで過ごせばあっという間に怠惰に流れて短い。そろそろ第二の人生に向かい始めた仲間も出てきた。体調でも悪くなければまるっきり何もしないでのんびりと言うわけにも行かない歳になってきた。髪の毛の白さはほんとに目立ってきた。「あなたはもうおじさんよ」と始めて言われて愕然としたのはもうずーっと昔のことだった。唖然としながらも「そんな事はない」とひそかに自分に言い聞かせ、かたや、老いの怖さに怯えながら生きてきた。ようやく今の歳になって、自分でも納得できる「おじさん」になったのかも知れない。見るもの、聞くもの、触るもの、何でも今までと感覚が違う。感じ方が違う。もう少し言えば浸透圧が違う。「老い」の感覚はこんなものかと最近感じ出した。
濃紺のロングコートを着て両手を挙げながら背景は青空だけ、その上履いている茶色の靴はヒールが高い、今考えると足のすくむような一枚の写真がある。あれは暑い夏が終わって、青い秋の空が抜けるような晩秋の頃だった。新宿の超高層ビルはまだ京王プラザホテルが一本だけ、新宿に向かって西大久保の18階建の校舎の屋上から見渡す風景はほんとにいつも素晴らしかった。屋上から見渡す風景が好きだった。もう忘れたがきっとあの時は建築模型を写した後のフイルムが余っていた。屋上から新宿、渋谷のほうまで眺めているうちに、いきなり18階の屋上の幅60センチ位の手摺りに上って新宿と透き通るような青空を背景に自分の写真を撮りたくなって一緒に眺めていた友人に「撮ってくれ」と言ってカメラを渡して撮ったポーズがあの足のすくむ写真。若さとはこんなもの、怖いなんて感覚はない。思ったらすぐに何にでも反応して行動に移す、感覚が行動を引っ張っていく。
極端に言えば桜の花と梅の花の区別もつかなかった。花が咲いている事だけに感動していた。いっぱい咲いた花にだけ感動していた。それが今は違う。梅のつぼみが小さく膨らみ出したことに素直に感動する。ようやく春が来たなんてしみじみ考えてしまう。この間も散歩していてアスファルトの道から山道に入った途端大地から伝わってくる感覚がぜんぜん違う、踏みしめる音と空気の匂いが違う、「これが自然のぬくもりだ」とまで感じ入ってしまう。去年は植木市で買ってきた「ヤマボウシ」の苗木を庭先に植えた、今までなら考えられなかった。廻りの感覚がどんどん滲み込んでくる。ちょっとした出来事もそう、辛いマイナスのことは触れたくない、見たくない、聞きたくない、読みたくない、知らないで遣り過ごす。知ればすぐに澱んで溜まりだす。溜まった滲みこんだ感覚だけが取り残される。
若さとは何にでも反応する、反応しながら行動して吸収していく。見るもの、聞くもの、触るもの、何にでも敏感に反応し次の行動へと向かっていくのが若さだった。見るもの、聞くもの、触るものから得た感覚が滲み込んで溜まり出す感覚が「老い」の感覚、同じ反応でもかなり違う。最近、たとえ見知らぬ人であっても人が亡くなった話なんかはこたえる、気が重い。一言で言えば「薄くなった浸透圧」、悲喜こもごもすべてに過剰に反応しながらなかなか消えていかない。盆栽の手入れをしたり、帆船模型を作ったり、鉄道写真に凝ったり・・・・、内にこもる感覚、あの感覚が分るような気になってきた。箱庭感覚と言う。自分でも納得できる「おじさん」、「老い」の感覚はこんなものだった。外から見た「おじさん」と内から見た「おじさん」のズレが埋まり出してきた。少しでも先延ばしにしたい気持ちだけがズレの間を彷徨っている。人生は短い、長いと思いたくない気持ちがそうさせる。
(青柳 剛)
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