旅先の日常                                                 平成18年11月16日


 同い年の関川夏央の文章はいい。それまで関川夏央を知らなかったが、もう5年ぐらい前になるだろうか、秋田の横手の駅前の病院に身内が入院している時、泊りがけで出かけた時に始めて読んだ。横手の駅を降りたら雪は絶え間なく降っている。歩道と車道の見分けが付かないぐらいの雪の量と寒さが身に凍みる。大した売店もない病院だったが、病院の正面反対側の書店が良かった。初めて訪れる書店の楽しみは、量はそれ程おいてなくても見慣れない本がおいてあることだ。本の並べ方も違う。見慣れない本の中のひとつが、関川夏央の「昭和時代回想」だったのである。誰もいない病室の前の待合ロビーで寝転がりながら読むのにちょうど良かった。4階の窓から雪空を見上げ、横手の街並みを見下ろしながら、関川夏央を読む。あれ以来、関川夏央の本は殆ど読んだ、雑誌、新聞に載っているエッセイはいつも気にしている。

 今日の話はタイトルにもあるように「旅先の日常」、今月号の茶道の月刊誌「なごみ」の中で関川夏央がいつもの「じ〜ん」とくるエッセイで書いている。・・・彼女にとって日本は、満州育ちの日本人がたいていそうであるように、「旅先」でありつづけたのだろう。戦後61年は、その長い長い「旅先の日常」に過ぎなかったように思われる。そんな時代のうち、彼女は昭和30年代と40年代を愛した。そうしてあの店の「時代遅れ」であろうとする空気はつくられた・・・(昭和のかけら 「時代遅れの酒場」)。神楽坂の中腹の路地にあった「時代遅れの酒場」と、そこの今年亡くなった無名のママのことを書いている。定まっているようでどこか心の隅で定まっていない「旅先の日常」であり続けた彼女の不安と、変わり続ける昭和のそれも一時期にこだわり続けた「時代遅れの酒場」の雰囲気が重なり合う。消えて行った「昭和のかけら」を懐かしむ哀愁が漂う。

 「余目」、あまるめと読む。その後、横手にも何度か出かけた。いつも秋田新幹線か新庄経由の山形新幹線で出かけていたが、たまには時間を気にせず遠回りをしながら夕暮れの日本海を見ながらのんびり帰って来るのも良い、在来線を乗り継いだ乗換駅が「余目」の駅だった。ホームに降り立った人は数人、みんな地元の人ばかり、空いた乗り換え時間に駅の周りを歩き出す。歩き出すとすぐ傍にのこぎり屋根の古い米蔵が数棟、駅前の木造の旅館の2階の窓からは出張の泊り客が浴衣姿で顔を出している。駅前広場では子供たちが三人、ボールを蹴っている。子供の手を引きながら幼子を背負い、秋田に帰る母親を見送りに来た若い母親がいる。歩いている人影もない、静まり返った駅前の光景が今でも鮮明に思い出されてくる。そこにあるのはみんな日常、し〜んとした日常、毎日繰り返される日常、ようやく訪れた春先の「余目」の駅前の日常に入り込んだ記憶が深く刻まれる。そこにいるのにいない自分探しの「旅先の日常」もあれば、旅に出かけたときに感じる「旅先の日常」も印象が深い。

 旅行に行こうと思って出かける場所はみんな観光地、時間が経つといつの間にか写真でも引っ張り出さないと忘れ去られてしまう。観光地は非日常的な仮想空間、何気なく立ち寄った場所のほうがいつまでも忘れない。「余目」のような話は沢山ある。福井の敦賀、冬の荒れ狂う海を見ながら帰りに立ち寄った商店街の定食屋の素朴な湯豆腐は、もう十年以上も前のことでも昨日のことのように思い出す。湯豆腐を出してきた厚い眼鏡をかけた店の女の人の顔まで忘れない。夏の萩で昼飯に食べたうどんにのっていた山のような鰹節かと思った鯖節はゆらゆらと踊っていた。あの店は商店街の一角、地域の人達だけのなじみの昼時バイキング料理の店だった。いつまで経っても色褪せなく思い出すのはこんな光景ばかり、きっと疎外感がそうさせる。「旅先の日常」との差異を測るために旅をする。自分探しのために生きている。「家はあれどもかえるを得ず」・「ただの人の人生」・「中年シングル生活」・「石ころだって役に立つ」・・・同い年の関川夏央の文章はいい、そこにいるのにいない自分が描かれているから面白い。


                                          (青柳 剛)

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