新潟土産の銀杏を食べて新潟のことを考えていたら新潟の友人からメールが来ていた。いつもの今月のジャズライブの案内メールだ。毎月送られてくる。年の瀬も押し迫り何かと慌しい。あれをしよう、これをしようと思っていてもなかなか自分の時間が取れない。そのうえ夜の会合なんかに誘われると身体を動かす時間までなくなってくる。追いかけられる時間だけが過ぎていく。思考は停止する。書く作業も立ち止まる。そんな慌しくなってきた年末、久しぶりにジャズのライブの案内メールで済ます「さかなの眼」、のんびりとお読みください。
拝啓 晩秋。「銀杏の匂い来て樹の在り処知る。」(愚自作)先日、ある方から自宅の庭で採れた大量の銀杏を頂きました。噛むと口に広がる独特の食感が何とも幸せな気分にさせてくれます。山の幸ならぬ、都会の幸ですねえ。ところで、先日内閣総理大臣に安倍
晋三氏が指名されました。(以下、敬称略)安倍は、昭和29(1954)年9月21日生で52才。私めにとって、初めて自分より年下の総理大臣の誕生。若いというか、自分がそれなりに齢を重ねたというか。私めが、最初に総理大臣の存在を意識したのは、小学校低学年の頃で、岸
信介でした。友達と両方の頬を手の平で下げて、よく顔つきの物真似をしてました。その岸の孫が、安倍。時代の流れを感じてしまいます。そこで歴代総理大臣についてちょっと調査。最も若くして総理になったのは、意外にも初代の伊藤
博文。明治18(1885)年就任当時44才3ヶ月。ただ、当時の平均寿命からすると現代の年齢とは単純には比較できません。昨今言われる7掛け説で現代の年齢に当てはめると、大体60才前後の感じですかね?逆に最も老齢での就任は、鈴木
貫太郎で77才8ヶ月。就任は、戦争末期の昭和20年4月。戦争続行を強硬に主張する陸軍の過激中堅幹部対策として、表向きは主戦派を演じつつ、背後では内乱等を引き起さないよう、終戦工作に奔走したらしい。
尚、その内閣の陸軍大臣の阿南 惟幾(あなみ
これちか)は、軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に大臣官邸で「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書を残し自刃。介錯を拒み、翌15日朝絶命したとの事。玉音放送前夜に壮絶なドラマがあったのですねえ。戦後では、やはり安倍が、最も若い。次が、「まあ、この〜〜〜ぉ。」の田中
角栄で54才。在職期間の最長は、明治から大正にかけて在職した桂
太郎の2,886日。約7年11ヶ月。次いで佐藤 栄作の約7年9ヶ月。ただ、連続では、佐藤が最長。最短は、東久邇宮
稔彦王の54日。三本指で有名な宇野 宗佑は、三番目で69日。出身地では、山口県が伊藤
博文をはじめ、安倍を入れて八人。東京都も、高橋
是清、吉田 茂をはじめ同じく八人。この二つの都県がダントツ。ただ、在職日数の合計では、山口県出身総理が、安倍を除いて12,384日(ネットの情報を元に自分で計算したので、間違っているかも知れません。悪しからず。)で約34年間。対して東京都出身総理は、6,017日。山口県は東京都のざっと倍で、総理占有率2割7分9厘。(そんな言葉あるかどうか知りませんが)48都道府県を平等にすると、2年半くらいずつだから、いかに山口県の占有率が高いか。後三人の所が、群馬、石川、京都、岡山、広島、鹿児島。二人の所が、愛知、大阪、島根。一人も出していない所が、20道県もある。地域的には、大雑把に言って、北に空白域が多く感じますね。在職中に死去した例では、原
敬、濱口 雄幸(遭難後病後不良により死去)、犬養
毅が暗殺。大正から昭和初期、すごい時代だったんですね。病死が、加藤
友三郎、加藤 高明、大平 正芳。両加藤は、共に大正時代の総理で、加藤姓は、この二人しかいない。今後、加藤姓の人は、総理になるには、要注意?大平は、「あー」「うー」が、当時流行語になる位、鈍重な喋り方で、私めもよく真似をしてました。79年東京サミットの最後の会見で「あっ、間違えました。あははは・・」と笑っていたシーンが思い出されます。翌年昭和55(1980)年のハプニング解散により実施された史上初の衆参同日選挙の最中死去。選挙初日のいつにない力強い演説、その後車の縁に掴まって疲労困憊していた様子も何故か思い出されます。ちょっと、しんみり。総理大臣とは縁も所縁もない私めが、もしなれるとしたら、せいぜい掃除大臣くらいですかね?もっとも就任しても、ほとんどやりませんが・・・。てな事で、12月のライブ予定お知らせします。心行くまでライブの音楽を楽しんで戴ければ幸いです。 敬具
(青柳 剛)
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