「蹴りたい背中」は第130回芥川賞をとった綿矢りさの小説、「もの悲しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい」思い、高校一年生の女の子が気になる男の子への連帯とも友情とも好意ともつかないもどかしい感情を表現する。背中はいろんな思いを表現する。いくつになっても背筋がピーンと伸びて早足で歩く人の意見は筋の通ったこととみんなが耳を傾ける。前向きの意見が多い。大きな背中は見ているだけで頼りがいがあるし、すべてを背負ってくれるような気がする。小さく丸くなってしまった背中からは歩んできた人生の重さまで伝わってくる。気持ちが落ち込めばいつの間にか背中まで落ちてしまう。自分で見えないのが背中、見えない背中は他人にいつも見られている。背中は主張する。今日の話は「親の背中を見ながら子は育つ」と言われる様に背中の話である。
「おやじの背中」、それこそ小さいときに背負ってもらった父親の背中は大きくて逞しく暖かった。「肩を揉んでくれ」と言われて触れた背中は子供の手では届かないくらいに広くて厚かった。自転車の荷台に乗って父親の背中につかまっていれば何も心配はなかった。父親の存在を最初に肌で感じるのは背中、そして、亡くなった今も思い出す父親の姿は背中から思い出す。怒鳴られた声は怒りとなって背中から出ていた。大きかった背中の父親がいつの間にか歳を取り、「小さくなったなあ」と感じながらコタツに丸くなって座っていた姿も背中から思い出す。触ってみれば背中の肉も落ちていた。背中のありようを思い起こせば父親の人生をなぞることが出来る。父親の考えていたこと、子供に伝えたかったこと、家族を支えていたこと・・・、「おやじの背中」を見ながら、なぞりながら、そしていつの間にか真似をしながら生きている。
「社長の背中」、経営者は目標を定めたら何としても目標に向かって進まなければならない。川の向こう岸にわたると決めて渡りだせば渡りきらなければならない。川を渡りだせば川の底の水の流れは思っていたよりもきついかも知れないし、石がごろごろしているかも知れない。おまけに深みがあって足をすくわれるかも知れない。ヒルに食いつかれるような泥川となってもしょうがない。一度決めたら渡りきる。それを見つめる社員にぐらついた背中は見せられない。背筋を伸ばして渡りきるのが経営者だ。経営判断に多数決の気安さはないから、経営者は孤独に前に向かって川を渡りきる。渡りきる背中を見せ続ける。苦境を乗り切った後、急成長を遂げている今話題の「モバゲータウン、モバオク、モバコレ、ビッターズ」の南場智子社長(ディーエヌエー)の話は面白い。「社長の背中」を見ながら組織はついてくる。
「おやじの背中」、「社長の背中」、似ているようでも似ていない。「おやじの背中」を見ながら子供は育つ。育った「おやじの背中」から学ぶものは多い。成功したかしないかは別にして、「おやじの背中」のような人生を送りたいと誰もが思うし、ましてやそれを乗り越えられればもっといい。「おやじの背中」をなぞりたい。ところが、「社長の背中」を社員もそのままなぞってくれると思うから勘違いする。「社長の背中」を見ながら社員は育たない。「社長の背中」には後から付いてくるだけ、後ろから見ているだけだから成功すれば付いてくるが失敗すればすぐに引いてしまう。失敗しそうな「社長の背中」は見せられない。「おやじの背中」は川を渡るのに背負ってくれるし、流されそうになれば子供も一緒になって支えてくれる。孤独に川を渡る「社長の背中」、いつも前に前にと大きな背中を見せ続けなければいつの間にか後ろに誰もいなくなってしまう。「社長の背中」、「おやじの背中」のようなわけにはいかない。
(青柳 剛)
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