「一つのことのみに」(朝日新聞 2001年5月12日)、吉村昭のエッセイである。
今日の話は、タイトルにもあるように「頭のいい人、わるい人」とはどんな人かっていう話である。小さいときから勉強が出来て、いつも成績はクラスの上位、学級委員にも選ばれる。中学・高校・大学は、そこそこの名のある一流校、その度毎に受験戦争を勝ち抜いて見事卒業となれば、世間一般で言う絵に描いたような「頭のいい人」となる。勿論、一生懸命勉学に励めば成績は良くなるし、望み通りの学校にも入ることが出来る、卒業も出来る。その上、IQでも高ければ華麗な学歴を積むことが出来る。ところが「頭のいい人」が社会に出て、会社に入って、組織の中で、誰もが納得できる評価になるとは限らない。廻りを見渡しても「頭のいい人の筈なのに?」と「?」のつく人は沢山いる。改めて「頭のいい人」とはどんな人かと考えてみれば、いかに「一つのことのみに」集中して取り組める人であるかどうかにかかっている。
どんなに「頭のいい人」でも中途半端な思考、中途半端な行動を繰り返していれば、「頭のいい人」にはなりえない。例えば、日本で「頭のいい人」の集まりの象徴といわれる東京大学に入っても中途半端なことをやっていれば、間違いなく落ちこぼれになる。「一つのことのみに」集中、学ぶことに集中していれば、きっとそんなに差は出ない。東京大学の中でも首席とビリの差は、学生時代の中途半端の度合いの差のことを言う。社会に出て「なかなかいいことを言う」、「面白い考え方をする」という人でも評価されない「頭のいい人」は、そこから先がいつも中途半端に終わってしまうから本当の意味での「頭のいい人」になりきれない。最後までどんなことでも集中してこなす人が本当の意味での「頭のいい人」となる。
吉村昭の「一つのことのみに」は面白い・・・・・『少年時代、帰宅した父がひどく興奮していた。父は、専売の煙草工場を見学してきたのである。現在と違って印刷された袋に煙草を入れるのは機械でなく、女性が煙草をつかんで袋に入れるのだ、という。「パッとつかむと二十本。何度つかんでも二十本」その女性が扱っていたのは当時売られていた敷島という銘柄で、つかんだ敷島を見事に袋に入れる。父が神様だと言い、例えば二十一本つかむと百本もつかんだような気がし、十九本だと四、五本の感じがする、と女性は言っていたという。東北地方に講演に行った時、係りの人からこんな話をきいた。将棋の名人大山康晴氏を講師にお招きし、講演を終えて控え室に戻ってきた氏が、「今日の聴衆は×××名ですね」と、言った。係りの人は、そんなことがなぜわかるのかと不審に思いながら調べてみた。聴衆の方には入場の折にパンフレットを渡し、そこにナンバーが押されていたが、それを見ると入場者は、氏の口にした数とぴたり一致していたという。どうしてわかるのですか、とたずねると、椅子が並ぶ客席が将棋盤と同じように縦横の線で構成されているので、一見してすぐわかる、と言ったという。煙草をつかむ女性、大山名人。一つのことのみに専念する人の素晴らしさ。商人であった父は、商人も自分の仕事以外に気を散らしてはいけないのだ、と自らたしなめるように言っていた。』(「一つのことのみに」吉村昭)
「頭のいい人、わるい人」、「一つのことのみに」集中して取り組む差のことをいう。どんなジャンルでも集中して考え続け、やり続けた人の評価は高い。勿論、芸術家なら集中するのは「一つのことのみ」、会社人間なら決して他人任せ、丸投げをしない人に人望は集まっていく。組織の中をフワフワ泳ぎまわっているだけなら誰も相手にしない。「一つのことのみに」集中した時間の積み重ねが重い。吉村昭の煙草をつかんで煙草の袋に入れる女性の話もそう、将棋の盤を長年見つめてきた大山名人の話もそう、「一つのことのみに」集中するからこそ出来る技、誰もが感心する話にまでなる。煙草の女性を吉村昭の父は興奮して神様だと思った。「頭のいい人、わるい人」、「能力のある人、ない人」、「評価される人、されない人」、「信頼される人、されない人」、もっと言えば「尊敬される人、されない人」みんな「一つのことのみに集中する人、しない人」と置き換えてもきっと外れていない。
(青柳 剛)
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