久しぶりに三島由紀夫の「金閣寺」を読み直した。文章が書き出しから最後の一行まで完璧に簡潔に仕上がっている。隙がない日本の文字とは三島由紀夫の「金閣寺」のことをいう。いい文章だ。自衛隊を辞めて本格的に小説を書き出そうと思った直木賞作家「平成の泣かし屋」との異名を持つ浅田次郎は、ただひたすらに一年間「金閣寺」を書き写し続けたという。その後、自分の小説を本格的に書くようになった。直木賞の候補作となった「蒼穹の昴」、そして翌年直木賞となった「鉄道員」も良く出来ているが、短編集にもジーンとじわじわ感動する小説が多い。出会うはずのない男女の壊れそうな心の軋みを書いた「月のしずく」、殺し屋と新聞配達のアルバイト学生とキャバレーの恋人との不思議な三角関係を描いた「銀色の雨」、経営に生き詰まり死に場所を探す不動産屋の社長がさ迷い歩く「姫椿」など読み出したら止まらない。
中途半端の規模の会社の経営をしながら文章を書いている。もっと規模が大きければ、いやもっと小さければ自由な時間が持てそうな気もするが、文章を書く時間はそんなにない。毎日が追いかけられっぱなしだと思考する時間がなくなってくる。考える時間のない月日の積み重ねが続けば、文章は書けない。文章を書こうとする頭の中がいっぱいなら、文章を書く余地がない。それでもこの数年、いろんなことを文章にしてきた。その数四百字詰め原稿用紙で700枚近くになった。朝から晩まで毎日書くことに集中していればもっと量は増えただろうが、仕事の合間を縫って、時間を探しながらにしては、よく書いた。書くことは、記憶力と構成力を刺激する。それでも、これはと納得する文章はなかなか書けない。
算数が苦手だったから建築学科に入った。今でも数字にはあまり強くない。物理なんかは考えただけで頭の中がこんがらかってくる。しかも、数字で法則を解き明かしながら計算をしていくとは、どう考えてもイメージが沸いてこない。感覚でしか理解できない。もともと、数学・物理に比較して英語と国語の出来の差は比べものにならなかった。特に国語は何千人いようが、模擬試験ではいつも一桁のトップクラスだった。たぶん読み込んでいた本の量が違っていた。それに比較して数学・物理は下から数えたほうが早い。それでも理工学部に入ろうと思ったのだから無謀といえば無謀だったが、なかでも建築学科だけは限りなく文系に近かったからなんとか入ることが出来た。早稲田大はデッサンまで入学試験にあるから滑り込める、あとは、好きな建築デザインに熱中しながら文章を書いてきた。
本を読むことが好きで、頭の中もきっと文系脳、そのうえ700枚近く文章を書いてもなかなかうまくならない。これはと満足する文章は、ほんとに少ない。書き上げた原稿用紙をいつもクシャクシャにしたくなる。自衛隊以後、家族の出来事もそうだったが、いろんな体験を積んだ浅田次郎は、小説を書く題材には事欠かない。題材に事欠かない上に文章もジーンとくる。つい読み耽ってしまう。それでも、小説家になりたての頃、原稿用紙3500枚書いてもボツになったとか、座っている畳の上に尻の跡が出来、少しずつずらしながら書いていると最後には一周してしまう、畳の上に出来た十数個の尻の跡を足でなぞると悲しくなった(勇気凛々ルリの色2)、なんていう記述を読めば納得する。書いている、考えている量が違うのである。「金閣寺」の緊迫した文体を読み終えた、あとは文章修行「名作の筆写」でもやってみようかという気にもなってくる。
(青柳 剛)
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