原広司の建築を語るには、当時、書名からセンセーショナルだった「建築に何が可能か」(原広司、学芸書林1967年)を抜きにしては語れない。中身はかなり難解だが、読み切れなければ最後の第4章有孔体の理論、40頁弱を何度か読み返せばいい、原広司の原点が分かってくる。このあたりを理解しないで原広司の建築をいくら体験しても、なかなか読み取れない。孔のあいた有孔体として建築を捉えるわけだから、内部空間と外部空間の接点を論議することになるし、孔の開き方によって外部からの光の取り込み方とそれに対応した内部空間のしつらえも決まってくる。ここを原点として原広司の理論はどんどん拡がっていった。内部と外部、場の理論、部分と全体、構造主義、世界中の集落調査、建築に都市を埋蔵する、機能から様相へ・・・・、一貫した研究成果としての理論を組み立てながら建築のかたちをつくる数少ない建築家が原広司である。
伊香保の「遊喜庵」は水沢うどんで有名な大澤屋の別邸茶室として1988年に竣工した。延べ床面積約77uの小さな建築である。外壁はコンクリート打ち放しとタイルと御影石の組み合わせ、切妻のかたちをした外観は土蔵をイメージさせる。外部の窓はいろんなかたちをしながら小さく開けられている。中に入ると、この窓が内部空間に効果を発揮してくる。足元から外部の植え込みが見える窓になっていたり、上部の開口部からは変化に富んだ光が射し込んで来る。炉を切った4畳半の茶室と8畳の和室が独立した入れ子構造の箱型となって配置されている。壁と箱型になった和室とのずれの間が茶室に入るまでの露地の役目を果たしている。茶室に座って見上げれば、抜けた天井のそのまた上の方形のトップライトから光が落ちてくる。
1970年代、原広司は住居のかたちを、集まった住居のかたちを、世界中、研究者が殆ど行かないような集落にまで足を伸ばすフィールドワークで調査しながら設計活動を行った。その研究成果をまとめたのが「住居集合論」(鹿島出版会)だった。それまで住宅の設計中心だったのが、80年代に入り、軽井沢の「田崎美術館」で日本建築学会賞、「ヤマトインターナショナル」で村野藤吾賞、指名設計競技で「梅田スカイビル」・「京都駅」・「札幌ドーム」などが最優秀作品に選ばれ、斬新なスケールの大きな建築をつくってきた。どの建築も発表されるたびに建築界で与えたインパクトは強烈だった。なかでも「田崎美術館」について原広司は「田崎美術館はひとつのエポックでしたね。600平方メートル程度の小さな美術館ですが、それまで設計してきた小住宅に較べれば、多様な形態の重なり合いや映り込みの効果で『多層構造』の空間を形成するという狙いが、かなり表現出来たこと、・・・達成感のある仕事でした」と語っている。(建築家という生き方、日経BP社)
建築は文化であり、その時代精神を表現する。「建築に何が可能か」といつも原点から問い続けてきた原広司、フィールドワークによる明確な理論に裏打ちされた建築をつくり続けてきた。明確な理論というのはどのような状況下でも自分の道を見失わないことを言う。建築を通して社会に向かって常に問題提起を投げかけてきた。建築のかたちをつくりながら理論が一緒になって付いてくる、建築のかたちの後から理論が付いてくる建築家とは違ったつくり方がそうさせる。最近は「住居集合論・復刻版」が、又、注目されている。伊香保の「遊喜庵」、20年後の今でも当時の建築に携わった職人芸の心意気が完成度の高い、細かい細工からうかがえる。群馬にあって数少ない原広司の作品だが「田崎美術館」と同時期につくられた「多層構造」としての空間形成と理論を随所に読みとることが出来る貴重な作品だ。(文中敬称略)
(青柳 剛)
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