□ 建築家シリーズ(菊竹清訓)                                                       平成20年1月28日


 我々の世代の早稲田大の建築学科の学生にとって、建築家菊竹清訓(1926〜)はそれこそスーパースターの存在だった。真偽のほどはともかく、伝説のように菊竹のエピソードが学生の間では語られていた。例えば、誰も見たことはなかったが、卒業設計で描かれた空の色は一本一本描きこまれた真っ赤な空だったと言われていた。着色仕上げがそんなになかった時代に空の色が真っ赤とは衝撃的な話として伝わっていた。この話は菊竹の建築デザインにかける情熱的な姿勢を考えるとおそらく正しかったのかもしれない。学生時代から「広島平和記念カトリック聖堂」を始めとした数多くの設計競技に参加し、居並ぶ建築家の中にあっていつも優秀な結果を残し、「コンペあらしの菊竹」とまで言われていたのも建築学生にとって大きな目標になっていた。

 同世代の中でデビューが早かった菊竹が、矢継ぎ早に注目を浴びる作品を発表しだしたのは1960年代だった。旧館林市庁舎(1963)をはじめ、「東光園」「都城市民会館」「萩市民会館」「島根県立図書館」など話題となった作品は数多い。旧館林市庁舎は 、現在館林市民センターとして使われている。四隅のコアとしての柱にトイレ、階段、機械室、エレベーターが収められ、梁間15mの執務空間を支えている。下階のフロアーに対して上階がせり出す設計手法は、実際に建てられればその後の日本の建築界の様相も変わったであろうといわれてきた全応募作品中最大の問題作・「国立京都国際会議場」の設計競技の菊竹の案を彷彿させる。せり出された山門をイメージさせる外観である。そして、現館林市庁舎建て替の際に、取り壊されずに残ったということは貴重な建築財産である。

 「か、かた、かたち」の三段階論で書かれた「代謝建築論」(彰国社刊)、その思いと理論を表現した自邸「スカイハウス」は、都市における住宅のあり方を根本的に問いかけた。大地から建築全体を浮き上がらせ、4枚のコンクリートの壁でワンルームの居住空間を支えた「スカイハウス」はその名の通り、1957年の衝撃的な作品だった。近代を核家族化のかたちとしての住まい方を表現した住宅だった。住宅が時間とともに変化していく、新陳代謝を繰り返していく、伝統論争の延長上にあった「メタボリズム」の概念を建築そのもので表現した形であったことの評価は高い。実際、持ち上げられた夫婦のための居住空間から吊り下げられた「ムーブネット」としての個室が時間とともに増殖変化を繰り返したのである。

 菊竹に学んで独立、活躍している建築家の数は多い。伊東豊雄、長谷川逸子、内藤廣、大江匡ら今の時代を引っ張る、そうそうたる面々である。学生時代の逸話にあった真っ赤な空の卒業設計、建築に向かう情熱的な姿勢が菊竹の考えと作品にいつも流れてきた。直接学んだ建築家の中でも「菊竹清訓にとっての伝統は、こうした日本的伝統と全く異なる。菊竹の日本は理性から生ずるのではなく、もっとダイレクトに身体の総体から生じている。意識的というより無意識的であり、視覚的というより嗅覚的、触覚的である。だから彼の日本は、どんなモダニズムの表現を用いた場合でも、空間の深部にまで浸透している、・・・」(再読・代謝建築論―本能的、瞬時的にメタボリズムの核心を衝く)と指摘する伊東豊雄の言葉は、戦後の建築家の中でも菊竹の異彩を放ってきた資質を言い当てている。(文中敬称略)

                                          (青柳 剛)

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