今年の1月に刊行された平松洋子のエッセイ集「おとなの味」(平凡社)は、読んでいるうちに食欲が沸いてくる、文章の質も高い。毎日の生活が豊かになるようなエッセイ集とは平松洋子の本のことを言う。今頃の季節ならば115頁の「春先の味」から読み始めたらいい。「春先に野山の苦味、えぐみを味わう。すると、にわかに身体の奥で蠢動が起こる。眠りこけていたものが、身を震わせて起き上がる。かんがえてみれば不思議なことだ。舌先から伝わった味が五臓六腑に響き渡り、大きな伸びをひとつ、からだを覚醒させる。そして、冬の間に溜まっていた澱がすうーっと下り始める。(中略)にんげんのからだも、季節に添うて変わる。季節が動けば、からだも動く。ふきのとうを皮切りに、のびる、つくし、たらの芽、こごみ、わらび、ぜんまい・・・・・春は次々とやってくる。ああ、気軽に野山に入って摘むことが出来る土地に住んでいたら。春先の喜びをひとつ逃しているのだと思えば、ちょっとくやしい」
平松洋子の感受性豊かな深い味わいには遠く及ばないが、コーヒーの話である。あれは去年の8月、春先から日本中が選挙、選挙で明け暮れ、ようやく参議院選挙が終わった3日後だった。選挙の締めくくりという意味もあって青山・外苑前の料理屋で数人の会食ということになった。急に決まった話なので早めに出かけたら一時間近くも早めに着いてしまった。歩道の上であちこちに電話をしていても時間が持たない、そのうえもの凄く暑い。そう思って入った店が外苑前のスタバ系の喫茶店だった。コーヒーを一口飲んだら、味も違うし、香りがきちんとする。「これがコーヒーの味だったんだ!?」と驚きながら思い出す。そういえば、地方に住んでいると車の生活だから滅多に喫茶店には入らない、いつも飲んでいるコーヒーは香りもとっくに飛んだつくり置き、ましてや選挙期間中に飲んでいたコーヒーは色がついているだけ、ただこげ茶色をしただけのコーヒーもどきのコーヒーに慣らされてしまっていたのである。
コーヒーの次が日本酒である。年明けから、酒を飲むと翌日の体調の悪さもあって飲む量もめっきり少なくなった。特別に気が向いた時以外には酒は飲まない。少ない回数だからどうせ飲むんだったら、気に入ったうまい酒と決めている。気に入ったうまい酒は金額の高い酒とは限らない。大吟醸酒はどうも馴染まない。味が濃すぎるというかフルーティーだから日本酒好きにはあまり好まれない。今夜の宴会も「ウーロン茶と後は焼酎の水割りを少しだけ」と思って席に着いたが、冷えた一合壜の日本酒が出てきた。名前は「とび辛」、いかにも辛そうで日本酒党にはたまらない。冷やして飲んでみると、喉越しがいい、さっぱりしている。日本酒独特の麹のにおいがする甘ったるさがない。「少しだけのアルコール」と思って席に着いたが、喉越しのいい「とび辛」のおかげでいつの間にか3本も日本酒を飲んだ楽しい宴会となったのである。
生活に頓着しないと生活は一気に簡素化される。簡素化された生活で失われるものは大きい。特に食べ物・飲み物を簡素化してしまうと生活は味気ないものになってしまう。そういえば、「貧すれば鈍す」とは食べ物から始まると、若いときに先輩から教わった。青春はすべてに亘る渇望感、そんな中でも、ただ空腹を満たすだけの食べ方をしていると心まで貧してしまうということを教えたのである。いつの間にか色のついているだけのコーヒーの味覚に慣らされ、酔うためだけの酒を飲んでいる自分に気付く。コーヒーは豆が大事だし淹れたての香りを楽しむためのもの、酒は料理と対、「とび辛」の喉越しの良さは宴会料理のしつこさに合っている。ちょっとした気遣い、こだわりを食べ物・飲み物に求めていく。平松洋子の「おとなの味」、最初から最後まで奥深い味のこだわりに満ち溢れている。味に頓着しだせば生活は豊かに、幅広いものになると教えている。頓着し続ける生活、形式化された生活の積み重ねが人生である。 (付、「とび辛」醸造元ー永井酒造・0278 52 2311)
(青柳 剛)
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