□ どうなる地方の建設業 その2                                                             平成21年1月6日


 毎年景気の先行きが心配だった建設産業、今年はそれ以上に厳しい年明けがやってきた。内側にいるとこの厳しさは実感できるが、昨年来のグローバル企業の急速な経営不振とそれに続く路頭に迷った派遣社員の報道で埋め尽くされ、いつの間にか国民の眼は逸らされ出している。確かに、今までとんでもない利益を上げていた日本を代表する企業が次々と経営不振に陥ってしまったことによるニュース性はこちらのほうが高い。もっと言えば、構造的に分かりにくい建設産業の不況が、分かりやすい派遣切りの報道の中で忘れ去られそうになっていることである。急激な利益を上げることもできず地方の雇用の下支えの役目を担ってきた建設業、地域とともに歩んできた建設業、そして、ここ10年以上に亘って構造的な不況業種であり続けた地方の建設業が陥った仕組みに、こんなときこそ正面から向き合う必要性はありそうだ。

 バブルが弾けたのが1992年、平成3年の時だった。あのときのバブルは、一言で言えば、土地を貨幣に置き換えすぎた結果がもたらした。建設業界に絞って見てみれば、地価の下落というバブルが弾けて苦しんだのは総売り上げの過半の部分を民需で担っていた大手のゼネコン、かたや、官需に頼っていた地方のゼネコンはそれほどのマイナスのダメージを受けなかったのである。苦しんだ大手のゼネコンは必死で構造改革に取り組んだ。もちろん、人減らしのマイナスのリストラもあったが、多くは英知を尽くして営業戦略の転換を計ったのである。それは、選別受注であり、自社の設計能力を高めたデザインビルドであり、海外に向けての営業戦略だったのである。バブルが弾けて10年、大手のゼネコンにとっての「失われた10年」の間の構造改革は景気回復とともに着実に結果を生み出したのである。

 バブルが弾けて減らなかったのは官需としての公共工事の量、概ね平成10年頃まで増え続けた。官需を景気回復の着火剤として利用したからそうなった。官需に頼っていた地方のゼネコンにとって「失われなかった10年」といわれる所以である。いきおい、地方のゼネコンの構造改革がこの10年の間に立ち遅れることになる。足元が火傷しそうに成りだしたのに気づかない、ぬるま湯状態から抜けきれなかったのである。そして、やってきたのが、今になっても続く平成10年からの公共投資マイナス3l削減の波、全国各地で地方を代表するゼネコンの経営破綻がバタバタと発生し続けたのである。その間、何とかしなくてはとリスクの高い不動産・マンション事業への進出、ある意味ではひとつの生き残り策としての構造改革としての民需獲得だったはずの戦略が世界的な金融不安とともに一気に頓挫し出したのが、昨年、全国各地で起きた地方有力ゼネコンの経営破綻だったのである。

 こうしてバブル崩壊以来の建設業の流れを改めて辿ってみると、海外戦略とか自社の技術力も高められない、構造改革どころか何も手がつけられない、官需に頼り続ける地方のゼネコンが公共投資マイナス3l削減の波の中でいつまで経っても取り残されていることが浮き彫りになってくる。平成10年からマイナス続きでは、あっという間にピーク時の半分以下になってしまう計算は誰だって出来る。そして昨年来やってきた製造業を中心としたグローバル企業の経営不振、技術力を生かし大手ゼネコンが担っていた設備投資も、もう、しばらくは見込めそうもない。ドバイを始めとした海外戦略まで撤退せざるを得ない。こうなってくると大手から地方の零細企業まで、先が見えなくなった年明けとは今年の年明けのことを言う。それでも取り敢えず手をつけなければならないのは、地方とともに歩んできた建設業の行く末をどうするかということ、派遣切り報道の陰に隠れて建設業とともに地方が崩壊しだす日がじわじわと眼の前に迫っていることを忘れてはならない。
(青柳 剛)

ご意見、ご感想は ndk-24@ndk-g.co.jp まで


「森の声」 CONTENTSに戻る