□ 母は94歳                                                                    平成21年3月30日


 去年の冬の苦い経験があるから、今年は細心の注意を払って母に接してきた。あの入院騒ぎは2度としたくない、油断した挙句の入院騒ぎだったからその思いは強い。要は風邪をひかせなければいいのである。部屋の温度は暑くもなく寒くもないように保ってきたし、加湿器もしっかり廻している。後は食事、去年の入院騒ぎ以来たんぱく質を少し多めに摂らすようにした、朝晩おかずのほかに、卵の黄身だけをご飯にかけてやるようにしたのである。こうすると食べやすいし、胃の負担もそれほどかからずにカロリー摂取量が少しだけ増える。後は、蜂蜜入りのヨーグルトを1日に1個、必ず食べるようにした・・・。いろいろ工夫したおかげか、今年の冬に母は風邪もひかず、トラブルといえば暮れにショートステイで入れ歯をなくしてしまって、あちこちの歯医者に相談しながらようやく型をとることが出来たトラブルがあったぐらいで春を迎えられそうになってきた。

 それでも毎年母の認知症の度合いは進んでいくからまわりは大変だ。今年は要介護3から1ランク上がってしまった。朝の何時間か、その後は何かの時の一瞬しか誰が誰だか分からない。そして、子供のときの話と同じ話しかしない。そのうえ、動き回るから目を離すわけにはいかない。かなりきつくなってきたが、今まで何とか在宅介護で頑張ってきたからこのままの状態で踏ん張り続けるしかないと最近は思っている。週のうちの何日かはデイサービスとショートステイを組み合わせている。自宅にいるときは、もう10年以上になるだろうか、知り合いの2人の女の人が交替で母の面倒を見てくれる。母が元気なときからやってきてくれているから、母のすべてが分かっているので安心して任せておくことが出来る。それでも10年以上も経てば、2人ともいつの間にか高齢になってきたし、見ていてハラハラすることも多くなってきた。

 母を看てくれる2人の性格は大きく違う。ひとりの人はとんでもなく几帳面だし、もうひとりの人の性格は正反対の大雑把なのである。几帳面な人は、洗濯物の干し方から始まってたたみ方もきちんとしているし、家の中はやってきた途端にあっという間にきれいになっていく。母の服にほつれがあったり、食べこぼしの食べ物が付いていたりしていたら気になってしょうがない、すぐにきれいにしてくれ、直してくれる。母から眼を離すことはないし、常に母に一生懸命話しかけている。もうひとりの人は、大雑把といえば語弊があるが、すべてに亘っておおらかなのである。やってくればすぐにコタツに座って母と茶飲み話をしばらくしてから一日の作業が始まりだす。母が動き出しても自由にさせている。母の問いかけにも適当な返事しかしない、相槌程度で終わっている。母と2人で疲れればテレビを見たり、横になってウトウトしたりして1日を過ごしているのである。

 2人が帰った後に母を寝かせつけるわけだが、不思議なことに、穏やかにスヤスヤと寝入ってくれるのは間違いなく大雑把なおおらかな人が帰った後なのである。母の心が落ち着いている。昼間も見ていると、何かとハラハラするようなトラブルになっているのは几帳面な人の時、おおらかな人の時には笑顔に笑い声まで出ている。几帳面にあんなに一生懸命母に接してくれているのに気の毒になってしまう。要は、正面きって認知症の人に向かうとうまくいかないことが最近分かってきた。認知症の人にはそうでない人にとって分からない世界がある、管理され、計画だった通りに行かないのが年寄りの介護なのだとつくづく思う。この先もっと大変なことになりそう、つらくなりそう、厳しくなりそう、どうなってしまうのだろうかと不安が頭の中から消えることがない。どんなことが起きても心構えは出来ているつもりだが、泊りがけでショートステイに出かけた母のいない、「し〜ん」と静まり返った暗い部屋に入ったときの寂しさこそやるせない。このやるせない寂しさが、介護に向かう意欲へと置き換わるのである。母は、5月、満94歳になる。(青柳 剛)

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