□ 「だろう文化」                                                       平成22年8月7日


 地方に住んでいて、良いこともあれば悪いこともある。何といっても悪いことは「だろう文化」が蔓延していることであろう。良いことといえば、水道の蛇口に思いっきり口をつけて飲んでも水が美味い事、都会ではもう考えられない時代になってしまった。蛇口から出る冷たい水をそのまま飲んでも大丈夫、地方に住んでいて良かった、改めて幸せだと思うひと時なのである。四季折々、周りに見える山の風景が変わることを楽しみ、春の連休の頃には水を張った田んぼから一斉に蛙の声が沸きあがり、夕暮れ時の棚田の風景はそれこそ美しく、絵葉書のようだ。先日は偶然、映画「蛍川」の最後のシーンほどではないが、蛍があちこちで群れて飛び交っている光景を目の当たりにした。取れたての野菜は、みずみずしく、都会では味わえない。畑でもぎたてのとうもろこしが、何もしなくてもそのまま食べることが出来ることを知ったのは驚きだった。ちょっと思いつくだけでも、地方に住んでいて良かったと思うことはこうして次から次へと挙げていくことが出来るのである。

 ところでよく言われることだが、地方では人間関係が濃密だ。最近報道されているように、都会では最高齢者の所在が何十年も分からなかったなんていうことは地方ではあり得ない。最高齢者が誰だか写真入りで地方の広報誌に毎年載るし、近所ではどこどこの誰が一番高齢でその次が誰、次から次へと順番まで誰もが分かっている。何年か前までは、横綱から始まって幕下まで、長寿番付まで発表されていた。救急車がやってくればみんな顔を出すし、翌日にはなんとなく病状までもが知れ渡っている。個人情報保護法どころの話ではない。極端なことを言えば、箸を落としても分かるぐらいに近所のことを分かっている。ジムに行ってもそうだが、昼飯を食べに行けば必ず知り合いがいる。ついこの間も、「立ち食いそばなら誰にも分からなくていい」と思ってよく食べに言っていたら、いきなり店の人に声をかけられ、こちらのことをもう全て分かっていたことには本当に驚いた。狭い地方ならではの濃密な人間関係である。

 知り合いばかりだから安心できると、濃密な人間関係でいい事もあるが、そうばかりとは限らない。地域の中で情報が飛び交うのも良いが、噂話としてマイナスの情報がどんどん増幅していくことには辟易する。これは地方特有の、もう止めようのない話である。少しでも目立つことをしたり、動きが活発だったり、地域の中で頭を出しだしたりすればすぐにでも噂話の種になる。組織の中で「出る杭は打たれる」といわれるが、組織の中ならば打たれ強くなれば済むことだが、いつの間にか沸いてくる相手の見えない噂話だから始末が悪い。憶測で誰かがものを言い出したのが始まり、それが拡がりだして、噂話どころか断定された事実として飛躍していってしまうのである。噂話で済めば良いが、大抵は事実と異なったネガティブな話が一人歩きしがちなのが地方である。

 この辺の噂話の仕組みを簡単にまとめてみれば、話の始まりはおそらく「あの人は・・・だろう」くらいの気持ちで語られ出すが、いつの間にか語り継がれるたびにその「・・・だろう」が取れて、断定調の「・・・だ」になって終わってしまうのである。事実と違って決め付けられた噂話は、訂正しようがないから始末が悪い。このことを地方にありがちな「だろう文化」と勝手に名づけている。どんなに暑くても朝晩は過ごしやすい。朝早くウォーキングをすれば空気は澄んで綺麗だし、最近はカブトムシもいる。先月まではさくらんぼの収穫時期、今はもぎたてのブルーベリーの新鮮な酸っぱさを味わうことが出来る。このあたりが地方に住んでいて良かったと思うときだが、「だろう文化」には悩まされる。それでも、「・・・だろう文化が又始まった」くらいの割り切った気持ちを持ち続けることが出来れば、地方では楽しく上手に生きていけそうな気になってくる。どこに住んでいても、人生良いこともあれば悪いこともある、差し引きゼロ勘定だと思っていればいいのである。(青柳 剛)

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