年末に総選挙が行われたから何もかも消えて行ってしまったような気がすると感じているのは私1人だけではないだろう。大袈裟に言えば、日本国民みんなそんな気がしているのかも知れない。マスコミ報道が選挙とその後の新政権の報道に終始するから他のことが消えて行ってしまう。じわじわとした微妙な時代の変化に気が付かない。そんな中でも政治にダイレクトに影響を受けそうな建設業界にいる人にとって一層この気持ちが強い。それだけこの3年3か月が厳しかったということだろう。「この間32%も公共事業が減ってしまった、しかもその前のピーク時から比べて半分以下になっているのに・・・、出来上がる寸前のダムまで中止?・・・」といろいろな思いをぶつけた業界挙げての総選挙だったからこの1年間をまともに振り返ることもなく新政権への期待値ばかりの新年が明けたのである。建設業界でこの1年間に起きた事を冷静に分析してみる必要はありそうだ。
例えば東京、建築に国民の眼が向けられた年だったと括ってみても間違いはない。話題をさらった建築が竣工した。規模としてはそんなに大きくないが、東急文化会館の跡地に建築中だった「渋谷ヒカリエ」がゴールデンウイーク前の4月26日にオープンした。上下階同時施工の組み合わせで工期短縮、33か月の短い工期で竣工したのである。その後は5月の22日、国民の話題を総ざらいしながら「東京スカイツリー」がオープンした。昭和33年竣工の「東京タワー」と較べれば技術の進歩は目覚ましい。例えば高さを支える底面積の大きさがいかに小さくなっただろうか、「東京タワー」の底辺は80メートルの四角形、倍の高さの「東京スカイツリー」を底辺68メートルの正三角形で支えている。10月には技術の粋を集約した辰野金吾設計の「東京駅舎」の復元工事が完成した。オレゴン州の松杭を入れ替え、新たな杭を作りながら建築全体を免震化して持ち上げ、当時の3層に復元した技術力こそ素晴らしい。竣工間際、日に日に仕上がっていく手際の良さは見事というほかなかったのである。
過去に建築に眼が向いた時代は何度かあった。建築学科に入学した昭和45年頃は日本中が大阪万博にまっしぐらに進んでいる時だった。丹下健三を中心に「メタボリズム」を標榜した菊竹清訓、黒川紀章など新進気鋭の建築家が描く未来絵図は目を見張るほどの新鮮さだった。いきおい、当時理工学部の中でも花形な学科は建築学科となっていった。遡れば昭和39年の東京オリンピックに向かっている時代、それこそ国民の話題をさらう最初の建築ブームの時だったのだろう。メイン会場となった「国立競技場」、駒沢公園を中心とした体育施設、九段の「日本武道館」、そして何といってもうねるようなダイナミックな造形の「国立代々木競技場」は戦後の日本を代表する建築のひとつとなっている。その後も何度か国民の眼が向き、振れ幅の強弱はあるが、建築への興味の針が振れる時代があった。初めての超高層が建てられ、超高層群の都市が出来上がってきたのもそのひとつだったし、最近では「六本木ヒルズ」のオープンとその後のお洒落な街、防衛庁跡地の「東京ミッドタウン」の竣工も話題となった。東京駅周辺、丸の内・日本橋の再開発は今現在進行中である。
こうして過去の建築ブームを辿りながら昨年1年間をなぞってみるといろいろなものが見えてくる。ここ何年間か空白が続いていたが、しばらくぶりに「ものづくりの素晴らしさ」に国民の眼が向きだした年といってもいい、前向きの「ものづくりの技術力の評価」だ。興味の度合いは、この時も建築学科人気は少し上がったといわれたが、数年前の「六本木ヒルズ」のそれとは違う、「東京駅舎」では携帯電話を掲げながら立ち止まる人達で溢れている。建築のジャンルの人しか知らなかった設計者の辰野金吾の名前まで知っている人が多くなった。興味の度合いが違うしいつまでも続きそうだ。「東京スカイツリー」も行列をしながら展望台へのエレベーター順番待ちの状況だ。「渋谷ヒカリエ」、休日は人混みで溢れ返っている。政権交代の期待値はますます高まっていくのは当然としても、株価は上がり、当面公共事業の総量は右肩上がりになっていく。忘れてならないのは、建築・都市へのじわじわと高まってきた期待値、いや「ものづくりの技術力の確かさ」への期待値を全国各地で増幅させる必要がありそうな年が明けたのである。(建設通信新聞 1月29日)
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